215.幸せになるからね その3
ところが、それだけでことが済むと思ったら大きな間違いであることも次第に明らかになる。
いくら結婚式を簡略化して執り行なうとしても、これだけは外せないと、おばあちゃんや父から言われたことがあるのだ。
それは、昔から続いているこの地域の慣わしみたいなもので、式を挙げたあと、村の人たちの家へ、挨拶回りをしなければならない、とのことだ。
そういえばわたしが高校生の時、ここから十分ほど行ったところの酒屋さんの家に、お嫁さんが来たと言って大騒ぎになったことがあった。
赤飯や菓子折りを持って挨拶に来た酒屋のお兄さんと、お嫁さんになるとてもきれいなお姉さんが、うちの玄関で恥ずかしそうに立って話をしていたのを思い出す。
今では酒屋をコンビニに改装して、若夫婦で切り盛りしている。
わたしと遥もその二人のように、夫婦になったお披露目を兼ねて、近所を一軒一軒回らないといけないらしい。
ああ、憂鬱だ。
どの家も昔から知っているだけに、何を聞かれるかと思うと恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい気分になる。
小さい頃のいたずらや、派手なケンカまで知られているのだ。
いろんな過去が蒸し返されそうで、はっきり言って、気が重い。
中には同級生の家もある。
遥と一緒に今すぐにでも東京に逃げ出したくなってしまった。
そして、ここからが一番大事な話しになる。
それはわたしたちの名字をどうするか、ということだ。
遥はうちに養子に入って、蔵城姓を継ぐと頑なな態度を取っていたけれど、父の一言で、わたしが嫁入りすることに決まった。
名前なんてこの際どうでもいい。ここの暮らしを心のどこかにとどめておいてくれたらそれでいいというのが、父の言い分だ。
その時、綾子おばさんがとても辛そうな顔をして泣いていた。
遥の希望どおり、蔵城家に婿入りさせてやってくれと頭を下げるのだが、最後まで父がそれをよしとしなかった。
遥のその気持ちだけで嬉しいと言って譲らなかったのだ。
夫婦別姓という案も出たけれど、それだと日本の法律ではカバーしきれないらしく、事実婚的な扱いになると遥が説明してくれた。
わたしの希望はどうなんだと訊かれ、堂野家の一員になりたいと正直にそう答えた。
以前、綾子おばさんから蔵城姓を名乗りたかったと聞いたことがある。
どうして自分が生まれた時からの堂野姓じゃだめなんだろうと不思議に思いながら聞いていたけど、今ならその気持ちがよくわかる。
古い考えだと言われるかもしれないけど、愛する人の姓を名乗りたい、ただそれだけのことだ。
決して蔵城が嫌なわけではない。
ただただ、遥と同じ堂野姓になりたいと思うだけであって、その響きがわたしをとてつもなく幸せな気分に包み込んでくれるのをすでに知ってしまったからだ。
堂野柊になることを認めてくれた父の深い愛情を、わたしは大事に受け止めたいと思った。
名字の問題が片付いたと思ったら、今度はおばあちゃんが、またもやとんでもないことを言い出した。
「遥がこっちに帰ってきた時、ゆっくりできる場所がいるだろ? 私のいる母屋に手を入れて、新婚の二人の居場所を作ってやろうと思うんだけどね。洋間がいいと言うなら、床に板を張ってもらうよ。それと、縁側からひ孫が落ちないように、柵も付けてもらおうかね」
おばあちゃんはいたって真剣に、さもそうするのが自分の使命でもあるかのようにそう言った。
「叔母さん、それなら大丈夫ですよ。柊もはる君もここにいればいいんだから。いっぱいスペースがあるし、今の柊の部屋を生かして、隣の部屋とつなげるのもいいかも。それに、保育士のわたしが、しっかり子育てを手伝うつもりよ。叔母さんは無理しなくていいんだから。ゆっくり過ごしてちょうだいね」
と、今度はうちの母が負けずに言い出す。
そりゃあそうだ。おばあちゃんちの母屋とうちの家はほとんど同じ間取りだ。
広さだけは掃除嫌いになるほど無駄にあるのだから、母の言うことも一理ある。
おまけに、両親が結婚する時にリフォームしているので、多少は住みやすくなっている。
それに子育ては母に相談すれば安心かもしれない。
「あら……。それを言うならうちだって、二階の希美香の部屋が空いてるんだから、そこを使えばいいわ。遥の部屋とつなげれば、それなりの広さは確保できるはずよ。つい最近まで卓のオムツを替えていた私が全て引き受けるから、孫の世話はまかせてちょうだい」
綾子おばさんまでもが、そんなことを言う。
確かに卓を育てた実績は、他の誰よりも説得力がある。
みんな一歩も譲る気持ちはないらしい。
どこまでも本気だ。これは先が思いやられる。
本当に遥と子供と三人で、東京で暮らせる日がくるのだろうか?
結局ここを出してもらえないなんてことにもなりかねない勢いだ。
三つ子でも産まない限り、三者三様の言いたい放題は収まりそうにない。
表面上は、いかにもあきれたというように、ため息をつきながらやれやれと首を振って見せるけど、嬉しさを隠し切れず、ついつい笑顔になってしまう。
ここにいるそれぞれの両親やおばあちゃんの温かい思いやりに、感謝せずにはいられなかった。
わたしと遥の二人の経済力では、二世帯を維持することはできない。
たとえ一間の古いアパートであっても借りて光熱費を払ってというのは困難だろう。
実家の親族たちが差し伸べてくれる無償の支えに胸が熱くなる。
おばあちゃん、母さん、そして、もう一人のわたしのお母さん。
こんなにも親身になって考えてくれて、本当にありがとう。
幸せになるからね。
絶対に、幸せになるからね。