209.愛のあかし その1
「柊……」
「やだ、母さん。そんな顔しないで。まだそうと決まったわけじゃないし。あの……。とにかく明日にでも病院に行ってみるから」
「そうね、そうした方がいいわね」
「うん。心配かけて、ごめんね」
「何言ってるの。そうだ。じゃあ、あのクリニックはどうかしら。綾子さんがすー君を産んだところ」
「あ……。あそこだね。わかった」
卓が産まれた時に何度かお見舞いに行ったことがある、あのクリニックだ。
「あそこなら、ここからも通いやすいし、総合病院とも連携してるはずよ。それに女医さんだから、何でも遠慮なく訊けるでしょ? 柊、わたしもついて行こうかしら。そうだわ、そうしましょう」
「いいって。一人で大丈夫だってば。もう二十五歳なんだよ。それに母さんは保育所の仕事だってあるんだし」
世間ではアラサーなんて呼ばれ方をする年齢に限りなく近付いているというのに、いつまでも母に甘えてばかりもいられない。
自分のことは自分で責任を持つ。
それはアメリカ社会では当然のことだと学んだ。
「そうなの? でも、なんだか心配よ。じゃあ、綾子さんに病院のこと聞いてこようか? 」
「えっ? それはちょっと待って。おばさんに心配かけたくないし。それに、きっと時差の関係や、食事の違いなんかで、身体がおかしくなってるだけだと思うから。深刻な病気じゃないって。大丈夫だってば。だからおばさんには、まだ何も知らせないで」
綾子おばさんには、今はまだ何も言うべきではないと思った。
体調不良の原因が何であるのか真実がわかるまでは、自分の中だけで収めておきたかったのだ。
「そうね。柊の言うとおりかもね。環境が変わると、いろいろ体調にもしわ寄せがくるし。じゃあ、とにかく明日先生に診てもらってから。それからよね。そうよ。大丈夫よ。うん、大丈夫、大丈夫……」
まるで自分に言い聞かせるかのように、母がつぶやく。
ようやく帰国して、親孝行ができると思ったのに、またもや不安にさせてしまった。
本当に何て親不孝な娘なんだろう。
いくつになっても不甲斐ない娘で、本当にごめんね。
両親の心からの笑顔が見られる日が来るのだろうか……。
翌日、不安を口にする母をなだめながら、綾子おばさんが出産した女性クリニックに一人で向った。
今までに感じたことのないこの体調の変化は、まさしく母の予想どおりなのかもしれない。
けれど、そうではない気もする。
くよくよと気に病むより、とにかく診察が先決だ。
産科・婦人科の看板を掲げた三階建ての小さなクリニックの入り口に立ち、深呼吸をした。
ゆっくりと息を吸い、そして吐く。
よし、行くぞと覚悟を決めて、受付に向かった。
待合室には、まるまるとしたお腹を抱えた女性が三人と、母親くらいの年齢の女性が二人いて、静かに診察を待っていた。
受付カウンターの下に置いてあるマタニティー雑誌にどうしても目がいく。
妊婦さんがみんなそれを手にして読んでいるのだ。
表紙にはママさんタレントのこぼれんばかりの笑顔が踊る。
果たして、こんなわたしが読んでもいいのだろうかと躊躇してしまうくらい、場違いな空気感だ。
図書館にはもちろんのこと、書店にもそれらの雑誌が並んでいるのは知っていた。
けれど、自分には全く関係のない遠い世界の物というお粗末な認識しかなかったため、今まではほとんど視野に入ってくることはなかったのだ。
回りの人の視線を気にしながら、マガジンラックからこっそりと一冊、取り出してみた。
ページをパラパラとめくってみる。
出産までに準備しておく用品が、こと細かに説明つきでまとめられているページに行き当った。
生まれてくる赤ちゃんの衣類、オムツ、ベッド、ベビーカー。
哺乳瓶に消毒グッズ。
母親の寝具にマタニティーウエア、そしてなんと、出産後の補正下着までも……。
こ、こんなに……。
初めての出産に備えて、どの家庭もこれをそのまま全部準備するのだろうか?
すごい品数だ。
もちろん費用も、それに見合う高額な数字をはじき出すことは間違いない。
体験談として先輩ママと称する人のコメントが、片隅に載せられている。
「レンタルとお下がりで充分間に合いました。調べれば、ネットで安く購入できる物もありますよ! フリマも活用してみましょう」
なぜかその文にホッとする自分がいた。
名前を呼ばれ、ドキドキする胸を抑えながら診察室に入った。
検尿、エコー、問診を受ける。幸い内診はなかった。
「くらしろ、ひいらぎさん、ですね」
「はい」
「そうですね。妊娠してますね。間違いないでしょう」
カルテを見ながら、医師がそう告げた。
「妊娠……」
「そうですよ。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……」
妊娠。やっぱりそうだったのだ。