208.生きること、愛すること その3
「あの伊藤小百合さんまでここに来て下さって、それはもう、大変な事になってしまって。ご近所には絶対に知られてはいけないし、伊藤さんも、遥のその、お相手だった女優さんも、ジャージ姿ノーメイクでやって来て、びっくり仰天。もうてんやわんやだったのよ。現実なのか、映画の中の出来事なのか、何が何だかわからない状況のまま、あっと言う間に時間が過ぎて行く感じだった」
「へえ、そうなんだ」
決してお高く留まっている人たちではないので、周囲を巻き込まないためなら、ジャージ姿でもノーメイクでもいとわないのだろう。
「あそこまで大騒ぎしておいて、そのあとすぐに別れたって……。ホントに、遥にはあきれて、もう親子の縁もきりたいくらい。逆に、ご近所にも世間にも知られてなくて、本当によかったわ」
「そ、そうなんだ……」
「あんな親不孝な非常識極まりない子の話はもう終わりにして、どんどん食べてね。お腹空いたでしょ? 」
わたしは曖昧に相づちを打ち、皆に促されるまま食事を始めた。
その親不孝で非常識極まりない人と一緒に人生を歩もうと、再度決心したばかりなのだ。
この風当たりのきつさにますます自信が無くなってしまう。
色とりどりのおいしそうな料理をあれもこれもと勧めてくれるが、帰って来てすぐさま食べられる物でもない。
普段はあまり乗り物酔いはしないのだが、今回は乱気流もあって、かなり気分が悪くなっていたのだ。
とうてい揚げ物類は食べられるはずもなく、いなりずしとサラダを食べて、休ませてもらった。
畳の匂い。隙間風の音。
窓の向こうから聞こえる騒がしいほどの虫の鳴き声。
ああ、家に帰って来たんだ。本当に帰って来たんだと実感する。
ここがわたしの家。
近い将来、ここから遥の元に嫁ぐことになるのだ。
いや、彼が蔵城を継ぐと言っていたから、その逆になるのだろうか。
どちらにしろ、遥と二人でここを守っていくことにはかわりない。
また遥の声が聞きたくなった。
ついさっき電話で話したばかりなのに、なんということだろう。
仕事で疲れている彼に悪いと思いながらも、携帯を操作する自分がいた。
「もしもし、遥、もう寝た? よかった。それがさ、疲れてるんだけど、なかなか眠れなくて……。うん。それでね……」
わたしが眠くなるまで、遥はずっと話を聞いてくれた。
おやすみ、と彼の声を聞くと同時に、ようやく眠りについた。
日本に帰ってきて一週間ほどは、時差ボケもあって何もやる気がおきず、家でダラダラと過ごしていたのだが、いつまでものんびりして羽を伸ばしているわけにもいかない。
大学も途中で辞めてしまっているため何の資格も持っていないわたしは、いったいどうやって生きていけばいいのだろうと突如不安に襲われる。
遥に頼ってばかりもいられない。
少しばかり英会話が出来るくらいでは、就職もままならない現実がちまたには溢れているというのに、いくらなんでものん気すぎる自分に焦り始めていた。
こうなったら何でもいい。
アルバイト探しが先決とばかりに、以前世話になった図書館に電話をしてみた。
すると渡りに船とでもいうのだろうか、来週からでも来て欲しいと言われ、とんとん拍子に話が決まった。
一息ついていると母がパートから帰ってきた。
わたしが渡米したあと、母は近所の保育園で働いている。
どうしても人手が足りないからと頼み込まれて、短期の約束で働きはじめたのだけど、結局はずっと続けている。
きっとわたしの仕送りのために、辞められなかったのだろう。
今度はわたしが働くからもう辞めていいよと言っても、聞く耳を持たない。
仕事は仕送りのためではなく、自分のためにしていると言って聞かないのだ。
子どもたちはとてもかわいいらしい。
せんせい、せんせい、と言って母を慕い、絵本を読んでとせがまれ、おうちに帰りたくないと言って抱き付かれた日には、この子たちのためならなんだって出来ると使命感に燃えてしまうそうだ。
ようやく資格を生かした仕事に就けたことが、余程嬉しかったのだろう。
はりきって仕事にでかけている母を見ると、このままにしておく方がいいのかなとも思う。
「あら、柊ったら! お昼ごはん、食べてないじゃない。こっちに帰って来てから、あまり食欲がないみたいだけど、どこか具合でも悪いの? 」
台所から母の声がする。
そうだ。図書館に電話をしたり、掃除をしたりしているうちに、昼食のことをすっかり忘れてしまったようだ。
母の言うとおり、最近食欲がないのは事実だ。
初めは旅の疲れかと思っていたが、やはりどこか悪いのだろうか。
少し、熱っぽい気もする。
「病院に行って来たら? 疲れてるのかもしれないわね」
「うん、わかった。明日にでも行ってみようかな……」
「でね、柊。ちょっと気になることがあるんだけど……。あの、月のものはちゃんとあるの? 」
「えっ? 」
あまりにも唐突な母の質問に、うろたえてしまう。
そういえばこのところ二ヶ月ばかり、ない。
もともと不順なので、回数的には一度抜けたくらいかなと別に気にも留めていなかった。
でも母の訊いてることの真意がわからないほど、わたしも子どもではない。
それに身に覚えがないわけでも……ない。
そう。一ヶ月半前。遥がロスのわたしのもとにやって来た。
「ねえ、母さん……。この辺で産婦人科だったら、どこがいい? 」
わたしは俯いたまま、とても小さな声で、母に訊ねた。