202.時空を越えて今 その1
柊視点です。
激しい胸の鼓動を感じながらも玄関に一歩ずつ近付き、ドアを開けた。
招き入れた人物は、わたしの背後に立つ大河内を確認した瞬間、目を見開いて立ち止まったが、すぐに臆することなくわたしのそばにやってきて、小さく微笑んだ。
「帰ろう。もうここにいる理由はないだろ? 」
長めだった髪も今では短くすっきりとまとめられ、スラックスとポロシャツというラフな格好にもかかわらず、もう学生の匂いはどこにも漂っていなかった。
わたしの前に立つこの人物は、間違いなく、よく知っている人であるはずなのに、どうしてもその名を呼ぶことが出来ない。
あまりにも深く深くその人を想いすぎたため、幻覚を見ているのではないだろうか。
あるいは、まだ夕べからの夢が覚めないまま、まどろみの中でこの再会の場面を傍観している最中なのではないか、などと考えを巡らせてしまう。
その人の手に触れたくて、頬に唇を寄せたくて、広い胸に顔を埋めたくて……。
でも少しでも触れた瞬間、目の前からその人が消えてなくなってしまいそうな、そんな気がして、じっと見つめることしか出来ない。
すると、その人の手がわたしの目の前にすっと伸びてきて、手の甲で頬にかすめるように触れた。
「二十五歳の誕生日、祝ってやれなくてごめん。去年も、一昨年も、その前も……。ずっと祝ってやれなくて、本当にごめん。その代わり、もうすぐ来る俺の誕生日を柊にやるからな。これから先の俺の誕生日は、全部柊のものだ。俺のこと、許してくれとは言わない。けど、これ以上離れて生きていくことができないとわかった今、ここに来ることしか俺の選ぶ道はなかった。柊、会いたかった」
夢なんかじゃない。
どんなに忘れようとしても忘れられなかった人。
その人が確かに今、ここにいるのだ。
「はるか……。来てくれたんだ」
彼の名を呼ぶ声はとても小さく、掠れた吐息のようで全く言葉になどなっていないのに、彼には聞こえたのだろうか。
うん、とその目が優しく返事をしてくれるのを見逃さなかった。
あんなに待ち焦がれていた遥が、目の前にいる。
そしてわたしの指先を彼の大きな手がすっぽりと包み込む。
その光景の一部始終を見ていたであろう大河内が、視線が定まらないまま重い口を開いた。
「堂野……。どうして今頃ここに来たんだ? でも、もう遅いよ。柊は僕と結婚するんだ。柊、こっちにおいで……」
声を荒げることもなく、いつもの落ち着いたトーンで遥に自分の優位を伝える大河内がいた。
でも、そんなことはまるで聞こえていないかのように振る舞う遥は、わたしに向って話を続ける。
「規子姉さんが俺の職場に来てくれたんだ。お袋と一緒に会ったよ。話は全部聞いた。大河内とは、まだ付き合って間がないんだってな? 」
刺すような視線を大河内に向けた後、遥は何もなかったかのように話しを続ける。
「この四年半、柊はずっと俺を待っててくれたんだって? 俺も待ってたんだよ、柊を。お互い意地の張り合いだけは超一流。誰にも負けないよな」
意地……。そう、わたしはずっと素直になれず、意地を張り続けていたのかもしれない。
そのうち遥が迎えに来てくれる、やり直そうと言って飛んできてくれる、そんな風に心のどこかで思っていた。
でも、まさか、遥も意地を張ってただなんて……。
「三ヶ月もしたら、日本に帰ってくると思ってたんだ。そしたらどうだ、二年たっても三年たっても、俺に何も連絡がないし。それどころか、俺に会うのを避けて時々帰国しているのを知って、柊の本気を見せつけられた気がした。マジで焦った。でも俺がかかわれば、また柊を不幸にしてしまう。自分でもどうしたらいいのか、先が全く見えなかった」
そうだった。日本に帰れば遥に会いたくなる。
そうすれば、また元通りで遥の足手まといになるとわかっていたわたしは、たまに帰国しても絶対に彼に会わないようにしていた。
なのに、彼の方から歩み寄ってくれることを期待していた自分もいた。
矛盾だらけだった。
未来なんて、何も描くことができなかった。
「堂野、見苦しいぞ」
大河内が一歩前に出て、遥に苦言を発する。
「今更おまえが何を言っても、言い訳にしか聞こえない。婚約したんだろ? 本田しぐれさんと……。今度はしぐれさんを泣かせるのか? 」
彼の言うことはもっともだ。
遥がここに来た事実は、すなわち、しぐれさんとの婚約が破棄されることを意味する。
これはわたしの本望ではない。
彼女の幸せを奪う権利は、わたしにはないのだから。
「ふっ……」
遥は、たった今大河内の存在に気付いたとでも言うように、不敵とも思える笑みを浮かべ、わたしを引き寄せたまま、ため息をもらす。
「しぐれさんを泣かせたのは大河内、おまえだろ? 婚約はとっくの昔に解消したよ」
えっ、今何て言った? わたしは耳を疑った。
遥は確かに言ったのだ。しぐれさんとの婚約は解消したと。
大河内も驚きのあまり、声も出ないようだ。