201.惹かれあう魂
遥視点になります。
遥はタクシーに乗り、窓から移り行く景色を眺めていた。
アメリカに来るのは二度目になる。
といっても、モデル時代に雑誌の撮影でハワイに行ったのが一度目の渡米なので、アメリカ大陸に渡るのは、正真正銘、これが初めての経験だ。
見るものすべてが珍しく、高速道路もフリーウェイという名のとおり、無料で通行できることに改めて驚く。
日本のアニメのファンだという運転手は、遥が日本人だとわかるや否や、カタコトの日本語であれこれ話しかけてくる。
長旅の疲れもあって、彼の趣味に付き合うゆとりは、今の遥にはとてもじゃないがもうどこにも残っていない状態だった。
飛行機の中でも繰り返し見る夢は、決まって柊の夢だった。
でもそれはいつもとは全く違った展開が待っていた。
遥が彼女を追いかけて行くまでは一緒だが、行き着く先が、暗くて深い森ではなかった。
それどころか明るい日が射し、湖がキラキラと輝いている、楽園のような場所にたどり着く。
そして対岸に立つ彼女が両手を開いて遥、こっちだよ、と呼ぶのだ。
何度も何度も呼ばれる。
湖を渡ろうとして、冷たい水に足を踏み入れたとたん……。
そこで遥ははっとして目が覚めるのだ。
まだここは飛行機の中。
もうしばらく眠ろうと目を閉じ、うとうとし始めると、再び柊が、遥、遥、と彼の名を繰り返し呼ぶ。
疲れすぎて幻覚でも見ているのかとは思うが、想像以上にそれは生々しく、柊の声が今でもはっきりと遥の耳に残っているほどだった。
タクシーに乗車中の今もまた、名前を呼ばれたような気がして後を振り返る。
もちろん車内には運転手と遥しかいない。
こんなところにまで彼女の声が届くなど、絶対にありえないことなのだが……。
柊に思いを馳せている間もアニメやマンガの話を得意げに話す運転手に適当に相槌を打ちながら、ロスに来るまでの日本でのすったもんだを思い返していた。
母親と規子が帰った後、遥はすぐに報道局に戻り、飯田に掛け合ったのだ。
休暇が欲しい、休ませて下さいと。
最初は、遥が何を言っているのか理解に苦しんでいた飯田だったが、家族に不幸でもあったのかとやや同情的な目で言葉を返してくれた。
「のっぴきならない事情なら許すぞ。実家で何かあったのか? 帰省するのだろ? 」
だが遥も嘘をついてまで休暇申請をするつもりはなかった。
はっきりと言ったのだ。「いいえ。彼女を連れ戻しに、アメリカに行きたいんです」と。
その時の飯田の顔は……。
どう表現すればいいのだろうか。
しばらく呆れたような、いや、力の抜けたクマのような、視線の定まらない覇気のない目で遥を見た後、冗談はやめてくれと言わんばかりに両手両足を投げ出し、くっくっくっと肩を揺らして笑い出した。
「堂野。おまえ、おもしろいこと言うじゃねーか。じゃあ、何か? オンナを追いかけて、アメリカに行きたいってことか? 冗談も休み休み言ってくれ。睡眠不足で、とうとうおかしくなっちまったんだな。おい。しっかりしろよ。おまえらしくないぞ」
遥の言い分など、わずかたりとも信じようとしない飯田は、この話はこれで終わりだと言って遥の肩をポンと叩き、机に向かい、キーボードを打ち始める。
「飯田さん。冗談なんかじゃありません。今日の午後から週末いっぱい、休みを頂きたいんです。お願いします。この忙しい時に非常識なのは百も承知です。承諾していただけないのなら……。クビにでもなんでもしてください。いや、辞表書きます。ここ、辞めます! 」
背中越しに、遥のとんでもない発露を聞かされた飯田は、ようやくそれが冗談でも出任せでもなく、遥の本心だとわかったのか、あわてて遥の腕を掴んで、部屋の外に出た。
「……おい、皆のいるところであそこまで言うな。おまえ、今何言ったかわかってるのか? いいか、おまえはまだ新入社員なんだぞ。その分際で休暇願いだと? ふざけるのもいい加減にしろ……と言いたいところだが。アメリカ、か……。どこだ? ニューヨークか? 」
「いえ。ロスです。親戚の家に住み込んでいる彼女を、なんとしても説得して、日本に連れ帰りたいんです」
「なんか知らんが、わけありみたいだな? ロス……か。それなら確かこの週末、報道に関するシンポジウムがロスで開催予定だな……。うーーむ。よしっ! 堂野、おまえ、そのシンポジウムに行って来い! 俺の権限で許可する。オンナのケリがついたら、ロス支局に顔出しして、挨拶も忘れるなよ。それでよければ、ロス行きを許可するぞ」
「飯田さん……」
遥は職を失ってもいいとまで覚悟していただけに、飯田の優しさが身にしみる。
世界中のどこの職場がこのような温情を見せてくれると言うのだろう。
奇跡としかいいようがない。
「おまえなあ、言っとくけど、ホントに上司が俺でよかったよな。他の堅物オヤジなら、おまえ、マジでクビになってるぞ。それに天候もおまえに味方してくれたみたいだ。明日は久しぶりに関東も晴れるそうだ……。で、なんだ、そのオンナ。おまえを振って日本から逃げ出したのか? 」
「そんなところです」
「ほおー。どこぞの高嶺の花か? 」
「いや、そんなんじゃないです」
「じゃあ、どーいうことだ」
「あの、大学の同級生で、あ、いや、高校の……その、実家の隣に住む、親戚の娘です」
「親戚? 大学、高校の同級生? 実家の隣に住んでる? なんじゃ、それ。天下の堂野遥が、えらく地味にまとめたもんだな」
「ま、まあ……」
飯田は遥の最大の弱みを握ったとでもいうような満足げな顔をして、たじろぐ後輩に、次々と窮地に陥れるような質問を投げかける。
「おまえなあ、確か学生の頃だったか、世間を騒がせたことがあったろ? あのきれいな女優との噂が流れたよな? ってことは。二股か? 」
これにはさすがに遥も反論できない。
が、二股とは聞き捨てならないではないか。
自慢じゃないが、浮気に類する行為だけは生まれてからこのかた、一度も手を染めたことはない。
その部分のみ訂正を願い出た。
「俺、そんなに器用じゃないですよ。もう時効だからいいますが、あれも事務所の戦略のひとつで、俺はいつだって今ロスにいる彼女一筋でしたから……。彼女に振られて、その後、別の女性との結婚も考えましたが、結局は彼女を忘れることはできませんでした」
「そうか。まあ、人生、いろいろあるわな。どれくらいの期間離れていたのかは知らんが、ずっと忘れられないなんて、よっぽどいいオンナなんだな。ある意味、うらやましいぞ。そんなヒトに巡り会えて」
「彼女とは、子どもの頃からずっと一緒で、彼女なしの人生は考えられませんでした」
「子どもの頃からって。大学、高校だけじゃないのか? 」
「はい。小学校も中学も、です。この四年間、離れてみても、気持ちは変わらなかった……。別れる前、籍こそまだ入れてませんでしたが、それぞれの両親に結婚も許され、少なくとも彼女のことは、妻同然に思っていました」
「そ、そうなのか? 妻同然か……。じゃあその花嫁を、必ず連れて帰って来るんだぞ。で、俺に一番に紹介しろ」
「もちろんです。何が何でも連れ戻してきます。飯田さん、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
遥は深く頭を下げて礼を言うと、飯田に仕事の引継ぎを頼み、いったい何の騒ぎなんだと奇異の目で局内社員に見られながら、帰路に着いた……というわけだ。
本当に、来てしまったのだ。初夏のロサンゼルスへ。
五十分くらい走っただろうか。
渡した住所メモの町までやって来たタクシーは、テラスハウスが並ぶ通りで停まった。
料金を幾分上乗せして払い、車を降りた遥は、眩しい日差しを手でかざすようにして、真木家の表札を探した。
テラスハウスというのは、日本で言うところの棟続きの戸建てになる。
庭も広く、南側のフロントガーデンは、植木や草花が趣向を凝らされて彩りよく植えられている。
車もアメリカ車が余裕で二台は停められるようになっているのだ。
そして北側には、これまた広い裏庭がついている。
バーベキューをしたり、ボール遊びで走り回れるくらいの広さがある。
遥の実家の庭も祖母の住む母屋から続いているので相当な広さがあるが、あくまでも田舎仕様だ。
ここのように整ってはいない。
様々な顔をしたフロントガーデンの中に、一ヶ所だけ明らかに周りと雰囲気の違う庭があった。
それはどことなくなつかしい香りが漂うような庭だった。
遥の実家の玄関脇に咲いている花々に似ていた。
白、黄色、紫。様々な色の帯が庭を埋め尽くし、さながら楽園のようでもあった。
遥はいつしかそこの庭に導かれ、ポスト脇にかかったプレートにMAKIと表記されているのを確認するや否や、玄関ポーチに駆け込んだ。
もう自制が効くのはここまでだった。
この扉の向こうに柊がいると確信したとたん、今までのいろいろな思いが泉のように湧き出してくる。
どうしてもっと早くこうしなかったのか。
どうしてこんなにも自分に自信が持てなかったのかと、後悔の念で押しつぶされそうになった。
どうか、間に合って欲しい。
柊が、まだ大河内と共に人生を歩む決断を下していないことを願うばかりだ。
遥は玄関ドアの前に立ち、足を踏ん張る。
拳をドアにあて、祈るような気持ちでノックした。