197.人生っていったい何なの?
遥視点です。
「どうしてはる君に嘘つかなきゃならないの? 柊が大河内君と付き合い始めたのは、つい最近よ。結婚だなんて、そんなこと、まだ何も聞いてないわ。ただ……」
「ただ? 」
遥は椅子に座り直したものの、上半身は規子に向って大きく前にのめり込んだままだ。
「今、あたしと夫がロスを離れて留守にしてる間、大河内君に遊びに来てもらったらいいからって……。その、泊まってもらってもいいだなんて、柊をけし掛けるようなことを言ってしまってて」
規子はハンカチをもみながら、気まずそうに目を逸らす。
「規子姉さん……。ということは、柊はまだ大河内とは、その……。何もないってことですよね。まだ付き合って間がないということが真実なんですよね? 」
「ええ、そうよ。柊はその場の雰囲気に流されるような弱い子じゃない。この人と生きていくんだと、きちんと決めた相手じゃなきゃ付き合わない。無責任な付き合いはしない子よ。それは、はる君、あなたが一番よく知ってるはず」
「……そうです。柊はそういう人間です。くそっ、あいつ、嵌めやがったな」
遥は正月に大河内が言っていたことが、全くのでたらめだったと、今初めて知ったのだ。
「もしかして……。大河内君がお正月に帰国した時、彼に会ったの? はる君、そうなの? 」
「はい。会いました。今から半年も前にね。それで、柊と結婚を視野に入れて付き合っているとあいつに言われたんだ。ならば、大河内の言ったことは、嘘だったってことになりますよね。俺は、俺は……。もうてっきり柊は俺のことなんかどうでもよくて、愛想を着かされたと思っていました。規子姉さん、彼女が俺のことを待ってるって、本当なんですか? 」
遥はまだそのことが信じられなくて、規子に執拗に食い下がる。
「ええ。そうよ。あの子はね、はる君も知ってるでしょ? とても気遣いの出来る子で、そんなことはこれっぽっちも言わないんだけど、現地のボランティア仲間や、夫の職場の若い人から声を掛けられても、全部断ってしまってるみたいなの……。この四年間、誰とも付き合おうとしないのよ。それでね、一度だけ問いただしたことがあって。そしたらね、あなたのことが好きだったから、一番大事だったから別れたんだって、そう言うの。だからもう二度と、誰とも恋愛はしないって言ってた」
「俺が大事だからって……」
遥は目をつぶり、ゆっくりと息を吐いた。
そうだった。柊はいつも、遥のことを真っ先に考えてくれていた。
「あの子らしいでしょ? でもね、そんな寂しい人生で、これから先どうするの、今すぐにでも日本に帰って、ちゃんとはる君に気持ちを伝えてきなさいって、ほとんど無理やり春に日本に帰したのだけど……。はる君が女優さんと婚約していたって言ってたわ。もうそれぞれの道を歩いて行くしかないから、これからは前向きに人生を考えていくんだ、と言い切ったのよ。あの子ね、ロスに戻ってから一週間ほど、ずっと泣いてたみたいだった。あたしたちの前では普段どおりに笑ってるけど、ベッドの中で一人で泣いていたのよ……」
黙って話を聞いていた綾子が、目を真っ赤にしながら、ハンカチをバッグから取り出す。
「柊ちゃん、かわいそうに……。遥のことをこんなにも想ってくれて、なのに、私は何もしてあげられない。規子さん、私はね、柊ちゃんが生まれた時からずっとそばで彼女の成長を見てきたの。生まれたての柊ちゃんを、お兄さんの次に私が抱かせてもらったのよ。母親のお姉さんよりも先にね。とても綺麗な子でね、将来は美人さんになるわねって、その時お腹の中にいた遥に話して聞かせてたのよ。もしかしたらその時からこの子達二人の運命は決まっていたのかもしれないわ。遥、あなたはこのままでいいの? 柊ちゃんを放っておいてもいいの? 」
綾子は涙を拭いながら遥に言った。
「それは……。俺だって、あいつのことはずっと気になっていた。あいつを思わない日はなかった。でも大河内に柊のことをまかせるって言ったんだ。柊のことを頼むと……。どの面さげて、今さら柊のところへ行けっていうんだよ。もう遅いよ。すべては俺のせいなんだ。俺が柊を守りきれなかったから……」
「遅くないわよ。遅くなんかない。ね、はる君。あたし達と一緒に、ロスに行かない? そうしましょう。ね? 」
「規子姉さん。俺だって、行けるものなら今すぐにでも行きたいですよ。でもね、男には、人生を賭けた仕事があるんです。任された仕事を放棄することはできない。俺達の報道を頼りに、生活を営んでいる人たちがこの国に、そして世界中にいる限り、俺はここから、離れられないんです」
遥は身動きがとれない自分の立場を訴え、精一杯の今の気持ちを規子に伝えた。
「そうね。そうよね。責任ある仕事だものね。わかった。もう何も言わない。はる君、柊に何か伝言ある? 」
何度も頷きながら規子が遥に訊く。
「幸せになれ……と、彼女の結婚が決まったら、そう伝えてくれますか? 」
「伝えるわ。ちゃんと伝える。……悲しいわね。こんなにもお互いを思い合っているのに、一緒になれないだなんて。柊ちゃんは、はる君とじゃなきゃ、幸せになれないかもしれないのに。って、こんなこと言っても仕方ないわね。じゃあそろそろ行かなくちゃ。はる君、時間をとらせてごめんね。綾子姉さん、帰りましょうか」
まだハンカチで涙をぬぐっている綾子に帰ろうと促すが、彼女はまだ立ち上がろうとしなかった。
そして座ったままそこから動こうとしない綾子は、斜め前に座る遥にゆっくりと視線を移すと、何かを決心したかのように語気を強め、話し始めた。
「遥。男だから人生を賭けた仕事があるって、いったい今何時代だと思ってるの? 明治? 大正? 違うでしょ。ずっと先の時代を生きてるのよ。女だって仕事は大事。女だって人生を賭けて仕事に取り組んでる。私も卓が生まれるまでは、家族と同じくらい、いや、場合によったら仕事の方を家族より優先してた時もあったわ。でもね、遥がその仕事と同じくらい、いやそれ以上に大事な柊ちゃんを失ってしまったのはどうして? 一番の原因は、モデルの仕事をやってた時、こっそり写真を撮られたことよね? 今回もまた、仕事を理由にせっかくの規子さんの話を、無視してしまうのかしら」
「無視なんかしないよ。でも今はどうしても、ここを離れられないんだ。今回の集中豪雨で生活が、いや、命までもが脅かされている人たちに、伝えなきゃならないことがいっぱいある。その上、まだ新入社員の分際で、私用で休暇を取ることはできない」
今すぐ行きますと言えない自分がもどかしい。
柊のもとに行ける可能性が限りなくゼロに近い立場にある遥は、せっかくの規子の提案も退けるしか選択肢がなかった。
「そうかもしれないけど……。じゃあ、遥の人生っていったい何なの? 仕事は賃金を生み出すし、それで生きるための衣食住はまかなえる。でも人間って、それだけでは生きて行けないのよね。それは遥自身が一番よくわかっているはず。……規子さん、ごめんなさい。なんか説教くさくなっちゃったわね。でも言いたいこと言って、すっきりしたわ。後はこの子にまかせるしかない。遥が決断するしかないのよ。これは、遥自身の問題だから……」
ようやく綾子が椅子から立ち上がり、規子と共にカフェテリアから出て行こうとする。
「母さん……」
ここから立ち去ろうとする母親の背中に向かって、遥がつぶやくように言った。
「あら、何年ぶりかしら。遥が母さんって言ってくれたの……。ホント、久しぶりよね。ねえ遥。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、生きる道を踏み外さないようにね。くれぐれも身体を大切にするのよ。それじゃあ……」
遥は社屋の出入り口付近の大きな窓から、遠ざかっていく二人の後姿を見ていた。
二人の女性が並んで、遊歩道を東へと歩いて行く。
隣のビルを過ぎ、交差点を渡る。そしてついに人ごみに紛れてしまい、二人の姿を見失ってしまった。
遥は突如その場から駆け出すと、エレベーターで報道局のある階に向った。
自分が今何をするべきなのか。
それが何であるのか、はっきりとわかった瞬間だった。
次回、柊視点です。