194.一条の光 その1
遥視点になります。
テレビ局で働くようになって、三ヵ月が経とうとしていた。
少しずつ仕事内容にも慣れ、しぐれと別れた後は、以前にも増して精力的に仕事に打ち込んでいた。
遥の所属は報道局だ。
ニュース番組の企画構成から取材まで一人何役もこなすハードな部署ではある。
先輩社員の指示を仰ぎながら仕事をこなしているが、先週から降り続いている梅雨の豪雨の被害状況の把握のため、そのまま報道局に泊まりこむ日が続いていたのだ。
今の遥には、かえってこのハードな環境がありがたかった。
深夜、人気のない家に帰っても、心が休まることはない。
あれこれいらぬことばかり考えてしまい、結局一睡もせずに朝を迎えることも多かった。
運よく眠れたとしても、決まっていつもの夢でうなされ、汗だくになって目覚めるのだ。
霧の森はいつまでたっても晴れることはなかった。
木々がうっそうと茂る森の奥深くに足を踏み入れたとたん、そこは一瞬にして暗闇に包まれ、懸命に手を伸ばしても木にすら届かない。
前方に薄っすらと見え隠れする見知らぬ女性は、長い髪を揺らしながら手招きをする。
こっちよ、こっちとしなやかな指先が遥を誘う。
次第にその女性の全体像が浮かび上がり、すらりとした後姿になつかしさを覚える。
ふとした拍子に見え隠れする横顔は、しぐれだろうか。
「しぐれさん、しぐれさんですか? 」
遥は声にならない声を何度も上げて彼女を呼び止めると、すぐ目の前に迫ったその女性が振り向くのだ。
彼女が哀しそうな目をして遥を見る。しぐれではない。
その目は遥が一番よく知っている、愛した人の目だった。
何千回、いや、何万回も遥の名を呼んだに違いないその口元をかすかに震わせながら、何も言わず、そこからいなくなってしまう。
それはあっという間の出来事。
つかんだはずの腕すら跡形もなく、遥の前から消えてしまうのだ。
「ひいらぎ……。柊なんだろ? どこにいるんだ。答えてくれ。行かないでくれ」
見えなくなった彼女を追い求め、声を限りに叫ぶ。
「ひいらぎ! ひいらぎ──っ! 」
遥は背中にぐっしょりと汗をかきながら身を起こした。
そこは家のベッドの上ではなく、仕事場の長いすの上だった。
彼の脇に立つ豪快な顔が、からかうような眼差しを向けていた。
「堂野。おまえ、かなり疲れているみたいだな。何日家に帰ってない? 三日か? それとも四日? 」
「あ、先輩。……五日、です」
「はあ? 五日だって? 仕事熱心なのもいいが、おまえ、本当に大丈夫か? 」
「はい、大丈夫です。ここにいる方が落ち着くんで……」
「おいおい、それ本気で言ってる? 家の布団の上の方がよく眠れるに決まっているだろ? 」
「まあ、そうですが……」
「カノジョと会わなくていいのか? 寂しがってるぞ? 」
「そんなの、ないですから。彼女なんていませんよ」
「ほおーー。いないのか? ならいつでも俺が紹介してやるぞ。社内でもおまえ狙いはわんさかいるぞ」
「やめて下さいよ。そう言う分野は、この先ずっと興味持たないつもりですから」
「言ってくれるねーー。このイケメンが! おまえってヤツは、ストイックっていうのか、無茶苦茶というのか……。何があったか知らないけど、独り身の俺には、なかなか刺激的な寝言を披露してくださるからな。どうした。女か? カノジョなんていない? どの口がそんなこと言ってるんだ、ったく。おまえみたいな完璧男でも、女に苦労するのか? 」
職場の先輩の飯田は、胸のポケットから禁煙用の模造タバコを取り出し、口にくわえながらさも愉快そうに遥に訊ねる。
「先輩、すみません。俺、寝てしまったんですね。今何時ですか? 」
「昼過ぎだ。三時間くらいは寝たか? 」
「はい、多分……」
「そうか、それはよかった。あのな、堂野。不眠不休で働くってのは、今どき何の自慢にもならない。健康管理をきちんとしてこそ、中身のある仕事ができるんだ。もちろん、オンナともうまくやりながらな。無理すんなよ」
「ありがとうございます。気をつけます。あの、雨の具合は……」
「ああ、そのことは心配ない。関東北部の集中豪雨もなんとか落ち着きそうだ。今夜は久しぶりに家でゆっくりできそうだな」
飯田が窓越しに灰色の空を見上げ、満足そうに頷く。
梅雨前線が本州から南下する兆しだと、つい先ほどの気象庁の発表も付け加えて知らせてくれた。
「梅雨の本番はまだこれからだ。梅雨前線だが、今回は一旦南下するが、またそのうち北上するだろう。そして太平洋高気圧が本気を出した時、やっと前線が北に押し上げられて、梅雨明けになる。七月上旬にまた豪雨のヤマが来る可能性があるから、それまでしっかり身体を休めておけよ」
「わかりました。この後、各地の被害状況をまとめて、支局と連絡を取ります。そして、今夜は一度うちに帰ります」
「よし、がんばれ。ところで、堂野。おまえな、ヒイラギと何度も苦しそうに呼んでいたが、何だ? クリスマスでもあるまいし。どこかの店の子の名前か? イケメン君は寝てる間もおさかんなこったな、ははは! 」
「飯田さん……。俺、そんなこと言ってました? 」
遥はつい今しがたまで見ていた夢を思い出しながら、苦笑いを浮かべる。
「そんなことも何も、かなりうなされてたぞ……。この仕事やってたら、確かに女の食いつきはいいんだが、付き合ってひと月もすれば、大抵の奴は逃げていくよ。こんな風に事件や災害が起これば、彼女と会うのもままならないからな……。まあ、これも運命。潔くあきらめるこったな、ははは……」
学生時代はラグビーをやっていたという巨漢の飯田は、身体を揺らしながら豪快に高笑いをして、存在感を猛烈にアピールしながら部屋から出て行った。
いつまでもここで休んでいるわけにもいかない。
寝起きの頭をすっきりさせるためにコーヒーでも飲もうと、長いすからのっそりと立ち上がる。
少し背中が痛むが、これくらい平気だ。
学生時代も研究室の古びたソファが遥の指定席だった。
それにくらべれば、ここの長いすはちょうどいい堅さで、案外寝心地がいい。
首を回し、ふうっと息を吐きながら、各所に設置してあるコーヒーサーバーのところに歩いていく。
「堂野さん、堂野さん。ちょっと……」
突然呼び止められた遥は、怪訝そうにその女性社員を見た。