191.愛を語り合えない二人
「あのう、ダイスケさんは、どちらさまでしょうか? 患者さんがお呼びになっているので、付き添っていただけますか? 」
看護師が、遥と本田先輩の両者を遠慮がちにちらちらと見ながらそう言った。
もちろん、ダイスケという人物はここにはいない。
大河内大輔は、ロスの柊の元にいる。
「あ、私です」
大輔と聞いて驚いた遥は、思わず本田と顔を見合わせたが、そのあとすぐに自分だと答えた。
「お、おい、おまえ。いいのか? 」
本田が申し訳なさそうに遥に訊ねる。
「先輩、大丈夫です。俺、行ってきます」
遥は看護師の後について、しぐれが治療を受けている病室に向かった。
ここは、しぐれの主治医が常駐している病院だ。
危険を察知した遥が彼女の部屋に押し入ったあと、ぐったりしているしぐれを見つけ、とにかく無我夢中で救急車を呼んだ。
ところが、次第に状況が見えてくるにつれ、彼女のプライバシーの問題が脳裏をよぎり始める。
救急隊にかかりつけの病院を訊かれた場合、しぐれから聞かされている病院名をそのまま答えてもいいのかどうか、迷いが生じていたのだ。
彼女の伯母である伊藤小百合は、仕事で不在だ。
救急車の到着を待つ間、遥はしぐれを介抱しながら本田に連絡を取り、彼の指示を仰いだ結果、この病院に運び込まれるに至った。
電話のあと、すぐに病院に駆けつけた本田と合流して、しぐれの診断結果を待っている状態だ。
外来の診察時間は昼過ぎで終わっていたため、幸い病院職員以外の一般の人と接触することはなかった。
処置室に入ると、だいすけ、だいすけ……と繰り返し大河内の名をつぶやく声が聞こえる。
ベッドに横たわっているしぐれが呼んだのは、遥でも本田でもなく、海の向こうのあの男の名前だった。
遥はベッドのそばに座り、彼女の手を握った。
苦しいのだろうか。
時折り眉間に皺を寄せ、ううっとうめき声を上げるが、さっきよりは顔色もよくなり、呼吸も安定している。
そして急に静かになったかと思うと、薄っすらと目を開け、そばで様子を窺っていた遥の首に手を回し、力なくしがみついてきた。
「大輔……。来てくれたんだ。どこに行ってたの? 待ってたのよ。ずっと……」
今は、今だけは、大河内大輔になりきろうと心に決めた。
遥はしぐれをそのままベッドの上に抱き起こし、背中をゆっくりとさすった。
「しぐれさん。心配したよ。無事で良かった……」
遥がしぐれの耳元でそうささやいたとたん、からめていた手を彼の首から放し、彼女は遥をじっと見詰める。
そして何かに気付いたかのように、はっと目を見開いた。
「はるか……さん。ご、ごめんなさい。あたし……。あたし、どうしたんだろ? なんか混乱しちゃって」
遥は、しぐれの手を取り、目を細めて首を横に振った。
「いいんだよ。しぐれさんが無事でいてくれれば、それでいいんだ。調子が悪いなら、そう言ってくれればいいのに」
「あたし、夕べもあまり眠れなくて……。あなたと会う前に眠っておいた方がいいかと思って、朝食後に先生からいただいてた薬を飲んだの。でも、効かなくて……」
しぐれの目から大粒の涙が次々とこぼれ出す。
遥はこの時ほど、自分の無力さを感じたことは無かった。
大河内になれない自分が情けなかった。
「わかったから。もう何も言わなくてもいいから……。でもこれだけは約束してくれますか? もう二度と無茶はしないでください。しぐれさんの命は、君一人のものじゃないんだから。ファンのためにも、家族のためにも、そして……大河内のためにも、大事にしてくれないと」
しぐれが、うんうんと小刻みに頷く。
医者の説明によると、いつもより少し多めに薬を服用していただけで、元気な身体ならば問題のない量だったらしいが、疲労と心労の積み重ねで、体力が著しく低下していたことが容態を重くしたということだった。
やっぱり、しぐれの悲しみを癒せるのは自分ではなかったのだ。
こんな形で思い知らされる日が来ようとは、遥とて、そう簡単に予測できることではなかった。
しぐれが大河内を思い続けているのはわかっていたはずなのに、改めて真実を突きつけられると、胸の奥がえぐられるように痛む。
「俺の方こそ、ゴメン。しぐれさんのこと、何もわかってあげられなかった。今日はこれで帰るよ。また連絡するから……。ゆっくり休んでください。じゃあ……」
遥はしぐれの方を振り返ることもなく処置室を出た。
廊下で待っていた本田に簡単に状況を説明して、病院を後にする。
自分の役割はすべて終わったと思った。
遥はなすすべがない自分に落胆すると同時に、一緒に幸せを築く相手は彼女ではないと、はっきりと自覚した瞬間でもあった。
結局しぐれはその日のうちに本田邸に戻り、三日後には仕事に復帰した。
過労のため、救急車で病院に運ばれたと報道されたが、そこに遥の名が上がることは無く、表面上は何も変わることなく時だけが刻々と過ぎていった。
遥の部屋の片隅には、先日しぐれのために用意した小さな紙袋が無造作に転がっていた。
この包みをもっと早く彼女に渡していたら、また違った未来があったのだろうかと考えてみた。
いや、そんなことはなく、何があっても彼女は受け取らなかっただろうと強く思った。
彼女は、大河内以外の男からたとえ何をもらったとしても、意味を成さないとわかっていたはずだ。
この真珠のペンダントトップを購入する時、同じ店の陳列ケースの中に並ぶダイヤの指輪に目が行き、その場で立ち止まった。
それを見逃さなかった店員が、こちらの指輪になさいますか? と聞いたのだ。
けれど遥は、それを拒んだ。
ダイヤの指輪は違う。
その選択肢は彼の中に全くなかった。
不思議そうな顔をする店員を横目に、最初に決めた物で押し通した。
子どもの頃、妹の希美香とままごと遊びをしていた柊が、ビーズのリングを指にはめて、心から嬉しそうな顔をして、こう言っていたのだ。
「わたし、おおきくなったら、はなよめさんになるの。きみちゃん、これみて。きれいなゆびわでしょ? ダイヤモンドだよ。はるかもみて。おとこのひとが、おんなのひとにプレゼントするんだよ。だからはるかも、いまからちょきんしなきゃだめだよ」 と。
指輪は。
ダイヤモンドの指輪だけは。
柊以外の誰にも……贈りたくなかった。
朝日万葉堂の和菓子の詰め合わせを後部座席に積んで、しぐれのお見舞いと称して、本田邸に車を走らせた。
そして、しぐれと二人で話し合った結果、婚約を解消して、彼女との関係も終わりを告げることになった。
それでいいと思った。二人にとって、最善の決断だった。
帰り際にしぐれが言ったひと言は、彼女の最後の思いやりだったのかもしれない。
「あなたと過ごした日は、本当に数えるほどだったけど。その時は、あなたしか見えなかった。あなたとなら生きていけると思った。本当よ。嘘じゃないわ。あなたが大好きだった……。はるかさん、ありがとう」
しぐれは笑顔でそう言った。
遥はしぐれのその言葉に嘘はなかったと思っている。
遥も、たとえほんの一瞬だとしても、柊を忘れていられる時があったのだから。
ただし、愛してる、の言葉だけはついにしぐれの口から一度たりとも聞くことは無かった。
同じく、遥も一度も口にすることは無かった。
愛を語り合えない二人の恋は、ついに実を結ぶことなく、そっと幕を閉じた。