190.婚約の先にあるもの その2
本来ならば蔵城家代々のしきたりに則って、正式な結納の儀式を交わさなければならないのだが、遥の父は蔵城姓を捨て、堂野家の婿養子になってしまった都合上、遥としぐれの婚約の儀は、かなり簡略化された形でとりかわされた。
横浜にあるしぐれの実家に遥と彼の両親が赴き両家が初めて顔を合せ、それから一週間もしないうちに、しぐれと彼女の両親、そして伊藤小百合も一緒に遥の家を訪れた。
こんなに早くに婚約へと進んだのにはわけがあった。
伊藤小百合のたっての希望だったのだ。
彼女が遥びいきだったのも理由のひとつだが、しぐれの幸せな笑顔が見たいという親心のような感情がそうさせたのだろう。
遥もけじめをつけるために、あえて伊藤小百合の勇み足に意見することはなかった。
婚約さえしてしまえば、柊のこともきっぱりと忘れられると思っていたからだ。
結婚のことはまだ事務所に報告していないので、なるべく隠密にことを運ぶ必要があった。
近所にはもちろん、親戚にも知らされていない。
このことを知っている第三者は、隣に住む柊の両親のみだった。
結婚式の日取りは年が明けてからと漠然としたものだったが、それも仕方ない。
しぐれの仕事が二年後まで予定が入っていることと、遥も入社したてで先の見通しが立たないことが理由となり、婚約はしたものの、他は何も変わりのない毎日が過ぎていく。
遥がしぐれを支えるようになってから、順調に彼女の体調は回復し、小百合もしぐれの両親も、理屈抜きに遥との婚約を歓迎していた。
テレビ局に勤めているとはいえ、遥がサラリーマンであることには変わりなく、しぐれに比べれば収入面でかなり落差があることも、彼女の両親は気にしないと言って受け入れてくれた。
ただ、遥の両親はともかく、祖母も隣の蔵城家も諸手を挙げてこの結婚に賛成というわけではなかった。
過去の柊と遥との関係も充分熟知しているしぐれは、周囲の軋轢も覚悟していたつもりではあったようだが、実際直面してみると、それは思っていた以上に厳しいもので、この先本当に堂野家、蔵城家とうまく付き合っていけるのかと不安そうに遥に訴えることもあった。
そして彼女が一人きりの夜には、また自分だけが取り残されるのではというトラウマにも似た恐怖に苛まれるのだろう。
真夜中に遥の声が聞きたいと言って、電話を掛けてくることも多かった。
遥も入社したばかりということもあり、深夜遅くまで慣れない仕事に追われ、しぐれの相手もままならない日が増えてくる。
ただししぐれもこの業界に身をおく一人でもある。
テレビ局の社員が昼も夜もなく働いているのを誰よりも理解しているという点で、遥に無理強いをすることはなかった。
しぐれも遥も、普段はそれぞれのマンションで一人暮らしをしているが、週に一度は時間を作って本田邸で会うように都合をつけていた。
いくら婚約はしているとはいえ、まだお互いの関係は始まったばかりなのだ。
できるだけ二人の時間を持って、何があってもゆるがない愛を育てていかなければならない。
いつもより少し早めに職場を出た遥は、久しぶりにしぐれに会うため、本田邸に向っていた。
助手席にはおしゃれなデザインの小さな黒い紙袋が鎮座している。
遥は婚約の証に何か記念になる物をと思い、指輪かネックレスなどの宝飾品を贈ることを考えていたのだが、「そんなものいらないわ」 のしぐれのひとことで却下されていたのだ。
仕事で何千万円もするネックレスやティアラを身につけさせられることもあり、それなりに本物を見る目も養われてきているのだが、それを日常で身につけることに、特別な価値を見出していないので必要ないというのがその理由だった。
普段もほとんどアクセサリーをつけないしぐれが遥の申し出を辞退するのも当然の結果といえばそうなのだが。
でもはいそうですかと鵜呑みにするわけにもいかない。
それでもしぐれに何かを贈りたいと思った遥は、昔のモデル時代に蓄えた貯金をはたいて真珠のペンダントトップを買い、しぐれにプレゼントしようと用意してきたのだった。
本田邸の車庫に車を停め、異人館のような外観の別邸の裏にある小さな本宅に向う。
その中のしぐれの部屋の前に来て、戸をノックした。
数ヶ月前にはここで毎日のようにしぐれに会い、憔悴しきった彼女を励まし、立ち直らせたあの部屋だ。
しかし中からは何の返答もない。
何度かノックを試みる。
しかし返事は愚か、中から物音ひとつしない。
今日は一日オフで、昨夜からここに泊り込んでいると聞いていたのにどうしたのだろう。
急に仕事が入って、呼び出されたのかもしれない。
もしそうなら、何か連絡があるはずだ。
遥は不審に思い、ドアノブを回してみた。
でも中から鍵が掛けられているのか、開くことは無かった。
ただしそれは、室内用の簡易な鍵だ。
ちょっと操作をすれば、すぐにでも開けることは可能だ。
その気になれば強行突破もできる。
が、しかし……。このタイプのドアは、外からは鍵はかけられない。
とすると、誰かが中にいて、鍵をかけている、ということになる。
前の失恋騒動の後、しぐれが部屋の中に引きこもった時は、彼女の意志で中から鍵がかけられていた。
遥は胸騒ぎを覚えた。
中にしぐれがいる。絶対にいるはずだ……と。
「しぐれさん! しぐれさん! 聞こえますか? 開けてください、ここを開けてください! しぐれさん! しぐれ! 返事をしてくれっ! 」
ドンドンと力任せにドアを叩き、大声で彼女の名を呼び続けた。