186.壊された心 その2
「堂野君……」
びくっと肩を震わせたしぐれが怯えたような目をして遥を見た。
「あ、すみません。俺、頭に血が上ってしまったみたいで……」
世間との接触を絶つほど心を病んでしまっているしぐれを前に、取るべき態度ではなかったと即座に反省する。
遥は自分の胸に手をあて深呼吸を繰り返すうち、次第に冷静さを取り戻していった。
「しぐれさん。俺、思うんですけど……。俺としぐれさんの関係は自然消滅ってことになってますよね」
「ええ、そうね」
「モデルを引退した俺の過去なんて、今さら誰も知りたくないと思うんです。マスコミも、そんなつまらない俺や一般人の柊のことなどに構っていられるほど暇じゃないですよ。だからしぐれさんは、あんな奴は無視してればいいんです」
「無視できればいいんだけど。でもね、ネットの掲示板で騒がれたのをきっかけに、事務所サイドも動き出すかもしれないの」
「はあ? どういうことですか。ネットの掲示板って……」
遥は修士論文に多忙を極めるあまり、そういったところにまで気が回らなかった。
モデルの仕事に携わっている時は、世間の噂が気になって、サイトをチェックすることもあったのだが。
自分のことはともかく、柊のことまで書き込まれているのだとしたら、とてもじゃないが静観できる状況ではない。
「ドラマのストーリーどおりに、あたしと佐山が現実でも結ばれて欲しいとか、二人はお似合いだとか。そういう書き込みが後を絶たなくて。柊さんや大輔のことは、まだ何も書き込まれていないわ」
「そうですか」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、佐山がすべての事実を握っている以上、書き込まれるのも時間の問題のような気がする。
しぐれがまだ何か言いたげな悲しそうな目をして遥を見た。
そんな不安定な彼女の様子を窺うように、遥は話を続ける。
「つまり、ドラマの中の出来事と現実が、視聴者の中で同一視されてしまった、ということでしょうか」
「そうみたい。製作側からすれば、ドラマのイメージアップにも繋がるし、プライベートでもそうなっても別にかまわないと事務所からも言われたわ。続編の構想もあるから、余計に周りが煽り立てるの。あたしだって、大輔のことも何もかも忘れて、新しい恋に生きていければどれだけ気が楽になるかって、いつも思ってる……。でも、無理なの! 到底無理に決まってる。佐山が好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくて。もう誰とも恋なんてしたくないの! あたしが好きになった人は、いつもこの手の間からすり抜けていってしまう。どうして? なんでそうなるの? ねえ、堂野君答えてっ! 」
「しぐれさん……」
「あたしが悪いの? なんでこんなに苦しまなきゃいけないの? 教えてよ。ねえ、堂野君、教えてっ……あああ……」
「しぐれさんっ! 」
必死で保っていた精神の均衡がバランスを崩したとたん、それはドミノ倒しのようにパタパタと倒れてゆき、堰を切ったように悲しみが溢れ出す。
それはしぐれの魂の叫びのようでもあった。
遥は、手を振り上げて大声でわめきながら暴れようとするしぐれを押さえこみ、後ろから抱きかかえた。
「しぐれさん、しっかりしてください。あなたは悪くない。だから、落ち着いて! 」
「いやよ。誰もあたしのことなんてわかってくれない。あたしの心は誰の物? 事務所のモノ? それとも、ファンのモノ? 」
「あなたの心は、あなたの物です。誰の物でもない、しぐれさんの物です」
「じゃあ、堂野君。あなたはどうしてそんなにしっかりと生きていられるの? あなただって柊さんを……。そうよ、彼女を失ったのよ。なのに、どうして? なんで、そんなに平気な顔でいられるの? 」
遥の腕を振り払おうともがきながら、しぐれが訊いた。
「俺が平気かって? そんなわけないじゃないですか。俺のどこが平気に見えます? もうとっくにずたずたですよ。身も心も張り裂けて、自分の心がどこにあるのかもわからない。ぬけがらも同然です。でも生きていかなきゃならないんです。柊はあいつを選んだんだ。俺じゃなく、大河内を……」
「堂野君……」
初めは激しく抵抗していたしぐれも、遥の胸の内を知ったとたん動きを止めた。
そして、遥の胸に背中から身を預けるようにして声を押し殺し泣いていた。
また新たに仕組まれようとしている愛のない恋愛へのシナリオに、しぐれが激しく拒絶反応を示しているのだ。
大河内との別れも、まだ受け止めきれないしぐれの胸の中は、想像もつかないほどの混沌を呈しているに違いない。
前の自分との嘘の恋人関係といい、今回の佐山の件といい、遥の腕の中で泣いているしぐれに自責の念を感じずにはいられない。
不可抗力であるとはいえ、すべてに遥が絡んでいるのも事実だ。
大河内との別れにしても、柊を自分の腕の中にとどめてさえおけば、こんな結果にならなかったかもしれないのだ。
遥は、ガラス細工のような今にも壊れそうなしぐれの細い肩に手を添えて前を向かせると、彼女の頬を伝う涙を指でぬぐいながら言った。
「ずっとそばにいるから。俺がしぐれさんのそばにいるから……。だから、もう泣くなよ。頼むから、泣かないでくれよ」
遥はより一層痩せて小さくなったしぐれを抱きしめ、何度も何度も、泣かないでくれと懇願する。
佐山という男の、執念にも似た汚い手口に、とうとう遥は屈服せざるを得ないのだろうか。
目の前の、今にも消えてしまいそうなしぐれを抱きとめながら、遥は柊を守るためのただ一つの道を選び取ろうとしていた。