184.楡(にれ)の木の下で その3
「せんぱーーい! 」
研究室のある建物の一階ロビーで、息を切らせ肩を上下させながらよく知った男が声を掛けてきた。
「堂野先輩、どこ行ってたんですか? 探しましたよ! 」
「なんだ、井上。どうしたんだ?」
「先輩、なんだじゃないですよ。本田さんとおっしゃる卒業生の方がお見えです。なんか、こう、背が高くって、髪なんかラメっぽく光ってて。それでもって、風に流されているような感じで、ワックスでかちっと固められたヘアスタイルがめっちゃきまってて。その髪のすき間からピアスがキラッと……」
身振り手振りで来客の説明をする井上だったが、すべてを理解した遥が途中で言葉を遮る。
「わかった。本田先輩だな。研究室にいるのか? 」
「はい。堂野先輩が戻るまで、待ってるって……」
「じゃあ、すぐに行くよ。井上、悪かったな」
遥にあこがれるあまり、決まっていた就職を蹴ってまで院に進学してきた後輩の井上は、遥の研究のよき右腕でもあった。
そんな井上をねぎらい、急いで階段を駆け上がった遥は、本田の待つ研究室のドアを開け久しぶりの再会を果たした。
「ええっ! しぐれさん、あれから仕事に行ってないんですか? 一度も? 」
遥はひとしきりしぐれの現状を語った本田に向って、声を荒げた。
「ああ。それはひどいもんだよ。マスコミを避けるために家にかくまっているんだが、部屋に完全に引きこもってしまって」
「なんてことだ……」
遥は座ったまま頭を抱え込んだ。
「俺も舞台の方が忙しくて家にあまり帰れないから、お袋も困り果ててるみたいで。幸いドラマ撮りの方は、穴を開けずに済んだみたいだが、単発の仕事は全部キャンセルしたらしい。四月からの映画のクランクインをどうするかで、事務所サイドも困っているという話だ。あいつが失恋したのは知っているけど、どうもそれだけじゃないみたいなんだな。なあ、堂野。おまえ、何か知ってるんじゃないのか? 」
遥は腕を組み、思案顔になる。
「一ヵ月ほど前に、しぐれさんの彼氏と……大河内と別れたことは、ご存知なのですね? 」
「ああ、知ってる。随分前から、お袋にこぼしていたみたいだからな。何度かうちで見かけたが、礼儀正しい真面目そうな男だったよ。でも、しぐれみたいなお姫様育ちは、あの男にとって、荷が重かったんだろうな。それに……」
「それに? 」
言葉を濁す本田に、その先が知りたい遥が食い下がった。
「しぐれにも言ったんだが。おまえの器で処理しきれるような相手じゃないって。一見、穏やかそうな顔をして、内面は誰にも見せない、というか、何を考えているかわからない、そんな男に見えたんだ」
「ふふ、さすが先輩。鋭い分析ですね。あいつのポーカーフェイスは中学の時からずっとあのままです。先輩、実はね、あいつ……。柊と」
「ん? 蔵城と、何かあったのか? 」
「はい、彼女と結婚するそうです……」
「なんだって? どういうことだ。じゃあ、あの男がしぐれと別れたがってた原因が、おまえの、その、蔵城だというのか? 」
「ええ、まあ。そういうことです」
「なんてことだ。堂野、おまえはそれでいいのか? 俺はあれからずっと責任感じてるんだよ。俺がおまえに言ったこと、間違ってたんじゃないかってな。おまえから相談を受けた時点で、すぐにでも彼女を追いかけさせるべきだったんだ……」
「先輩。先輩が責任を感じる必要なんて全くないですから。すべて俺が判断して決めたことです。柊が大河内との将来を望むなら、それでいいと思っています」
「ホントか? それがおまえの本心なのか? あの蔵城が、そう簡単に別の男に心変わりするとも思えないけどな。じゃあ、しぐれは、そのことをずっと引きずっているんだろうか。でも、なんかそれだけじゃないような気がするんだ。おまえ、本当に、それ以外、何も知らないのか? 」
「はい。それ以上は。あ、でも……」
「何か知ってるのか? 」
「いや、何でもありません。大河内との別れ以外、本当に何も知りません」
まさか失恋したもの同士、その場の流れで口付けを交わしたとも言えず、言いかけた言葉を飲み込む。
それに、百戦錬磨、さまざまな男女の修羅場を潜り抜けてきたであろうしぐれのことだ。
たかが遥とのあの一件で引きこもるなど、到底考えられない。
他に思い当たる節がないとしか答えようがなかった。
「そうか……。実はな、しぐれと共演した男から、何度か電話がかかって来たと、お袋が言うんだ。しぐれの携帯につながらないから、マネージャー経由で、家の電話にかかってきて、しぐれに取り次いで欲しいと言ってきたらしいんだ」
最近しぐれが共演した男なら、考えられるのはただ一人。
遥は、先週最終回を迎えた連続ドラマの共演相手を思い浮かべていた。
それは遥にとっては、あまり思い出したくない相手でもあった。
「先輩。もしかしてその電話の男、佐山って言ってなかったですか? 」
「うーん。そうだった気もするな。前までしぐれと共演してた、少し線の細い感じのいけ好かない奴だよ。そんな奴が、しぐれを気遣って電話してくるってあたりが、どうにも解せないんだよな」
遥は確信した。あいつだ。佐山拓だと。
それと同時に、何かもやもやとした物を感じ始めていた。
遥がモデル事務所に在籍している間中、彼をずっと敵視していた佐山のことだ。
しぐれを通して、何かよからぬ策でも講じているのではないかと疑ってしまう。
しぐれが引きこもってしまった原因が佐山にあると確信した遥は、その夜しぐれに会うために本田邸に向った。