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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
第五章 しれん
183/269

183.楡(にれ)の木の下で その2

 次の瞬間、速やかにシートベルトを外した遥は、隣に座るしぐれを抱きしめていた。

 こんなにも細くて、儚くて……。

 誰にもすがることなく、涙を流す方法すら忘れてしまって、ただ身体を振るわせるだけのしぐれを、黙ってこのまま放っておけるわけがなかった。


「しぐれさん……。こんな時はね、泣いてもいいんですよ。声をあげて泣いてもいいんです。男の俺でも泣きたいくらいなのに、あなたが我慢する必要はないですから……」


 遥はしぐれの身体を拘束しているシートベルトをそっと解除し、背中を優しく撫でたあと、より一層力を込めて抱き締めた。

 すると、それまで遥の顔の横にあったしぐれの頭が徐々に下がっていき、胸のところまで降りてくると、彼のジャケットを握り締めたしぐれが低くうめき声を上げた。



 いつしか日が沈んであたりに夕闇が迫る。

 本田邸の駐車場前にある大きな(にれ)の木の下の車の中で、しぐれはようやく心のままに声をあげて泣き始めたのだ。

 遥はしぐれを胸に(いだ)きながら、泣きじゃくる柊をあやすように抱きしめた高校生になったばかりの若い日の遠い記憶を、不思議なくらい鮮明に思い出していた。

 同級生になじられて、怯えるようにして泣いていた柊がどれほど愛おしかったか。

 この手もこの目も、そして遥の身体中の細胞のひとつひとつが、彼女を形作る全てを克明に憶えていたのだ。

 その時、思わず奪いそうになった、濡れるようにきらめく柊の真っ赤な唇も……。


 でも、今遥の腕の中にいるのは柊ではない。

 遥は何度も何度も自分に言い聞かせた。

 ただしぐれを慰めるためだけに抱きしめているのだと……。


 そして、泣き疲れたのか、とろんとした目で遥を見上げたしぐれと視線を絡めた直後、もう気づいた時には、どちらともなく唇を重ね合せていた。

 遥の心の中にいまだ棲みつく柊の存在をかき消すかのように、しぐれを求める。 

 けれど、柊を忘れるどころか、ますます脳裏にくっきりと浮かび上がる柊と大河内の戯れる姿に、遥は雷に打たれたかのようにはっと我に返る。

 しぐれもほとんど同時に遥から身を離した。


「堂野君、ごめんなさい。こんなことするつもりなんて、なかったのに……。今のこと、忘れて。じゃあ」


 するっと車から降りたしぐれが、北風に乱される髪を押さえながら建物に消えていく。

 遥はふっと乾いた笑みを浮かべ、彼女の後ろ姿をぼんやりと見送る。

 そして再びエンジンをかけると、素早く車を走らせ本田邸を後にした。




 大学施設の裏手にある山林へと続く小径に、ぽつんとベンチが設置されている。

 遥はそこに座り、手に缶コーヒーを持ったまま目の前の梅の木を眺めていた。

 時折り小雪がちらつく寒空のもと、薄紅色の蕾が膨らみかけ、そこだけ春の訪れをひっそりと告げているように見えた。


 遥はあの日から何度も同じことを考えていた。

 柊が大河内と付き合っている。

 そして、大河内が柊と結婚するとまで言った耳を疑うような真実を……。


 でも遥は、今更自分にはどうすることも出来ないとわかっていた。

 遥の元から飛び立って行った柊は、あろうことか大河内と将来を共にするという。

 それが彼女の意志というなら、もうなすすべがない。


 混乱した意識の元、車の中で震えるしぐれとかわした口付けは、遥にとっては予想外の出来事だった。

 ただ、あの時はそうするしかなかった。

 愛する人を失い、それでも生きていかなければならない遥としぐれにとって、必要な行為だったと言わざるを得ない。

 所詮、あの場限りのお互いの弱さの露呈でしかなかったのかもしれない。

 そう。あの営みは思いやりの一種だったのだろう。

 しぐれは遥に、遥はしぐれに、それぞれがまとった哀しみをほんの少し請け負っただけなのだ。


 あれからひと月ほど経つが、しぐれと会うことも、メールすら交わすこともなかった。

 やはり、それだけのことだったのだ。

 これを人は魔が差したなどというのだろうか。


 何も進展がないことが、結果的に遥の気持ちを楽にさせてくれたのも事実だ。

 たかが一度きりの口付けくらいで、しぐれとの関係が劇的に変化することなどあるわけがない。

 しぐれも遥同様、異性として相手を見る感情は持ち合わせていなかったようだ。


 遥はある決心をしていた。

 論文も無事提出を終え、卒業式までの比較的時間のある今、ロスに向おうと決めたのだ。

 もちろん柊を自分のもとに取り戻そうとか、大河内との間を引き裂こうとか、そういうつもりは毛頭ない。

 純粋な気持ちで真正面から柊に会い、今までの不義理を詫びるつもりだった。

 そして祝福までは出来なくとも、柊の口から直接大河内への思いを聞くことで、彼女を思うすべての感情に終止符を打ちたかった。

 将来、共に人生を分かち合うことが叶わなくなったとしても、柊とは親戚としての繋がりをこの先永遠に絶つことは出来ない。

 蔵城家の家と土地があそこにある限り、柊を避けて暮らしていくことは不可能だ。

 同じく柊も遥を永久に遠ざけることは出来ない。

 遥はお互いの間に横たわるわだかまりを取り除くためにも、今この時期に柊と話し合っておくことは重要だと感じていたのだ。


 すっかり冷え切ってしまった缶コーヒーを一気に飲み干すと、研究室の残務整理をするために、のっそりと立ち上がった。


読んでいただきありがとうございます。


拍手コメントをいただき、ありがとうございました。

活動報告の方にお返事させていただきましたので、ご覧いただけると嬉しいです。

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