182.楡(にれ)の木の下で その1
「もういいの。それ以上大輔を責めないで欲しいの」
「でも、しぐれさん。あなたはまだ、こいつのことを……」
「ほんとに、もういいの。もう何も言わないで」
「しぐれさん……」
「だって、このままだと、あたしがすごく嫉妬深くてあきらめの悪い、一番嫌な女ってことになってしまうじゃない」
「何を言ってるんだ。あなたをそうさせたのは、こいつですよ。しぐれさんは悪くない! 」
遥は大河内をキッと睨みつけた。
「堂野君、ごめんなさい。あたしと大輔が元に戻れるようにと、あなたにここに来てもらったのにこんなことになって……。でも、もう本当にいいの。大輔の気持ちは、もう変えられないってわかったから」
しぐれは座ったまま自分で自分の身体を抱きしめるようにして、両手でぞれぞれの反対側の腕を握り締める。
「しぐれさんがそう言うのなら、俺はもう、何も言うことはありません」
しぐれの意志は固い。遥はもうあきらめるしかなかった。
「こうなるのは当然の結果だったのよ。仕事が忙しいのを理由に、あたし、大輔に甘えていたの。あたしのためなら、いつどんな時だってわがままを叶えてくれるって、そう思ってた。マスコミやファンの反応を気にするあまり、外で堂々と会えなくて、いつも小百合ちゃんの家かホテルでしか会えなかったことも、大輔には不満だったのかもしれない。夜中にこっそり大輔のマンションに行った時は、危うく近所の人に知られそうになって、あなたを困らせたこともあったわね」
しぐれが声だけを大河内に向けて言った。
「ああ……」
大河内が無表情なまま頷く。
「大輔。もういいわ。あなたの好きにしてちょうだい」
はっとしたように顔を上げた大河内が、今日初めてしぐれを真っ直ぐに見た。
「あたしたちのことと、柊さんのことは別問題よ。柊さんの存在があたしたちを引き裂いただなんて、思ってないから。だって、柊さんはそんなことする人じゃない。あたしたちがこうなったのは、あたしたち二人の責任。あなたとのお付き合いより仕事を優先したあたしの選択ミス」
しぐれはきっぱりと言い切った。
「堂野君、悪いけど撮影スタジオまで送ってくれる? この後まだ少し仕事が残ってるの。ふふ……。あたしだってバカじゃないわ。大輔が誰を思ってるか、なんてことはとっくに知ってたんだし。でもあたしと付き合ってた時は、大輔の心はあたしだけを見てたって、そう信じてる。そうよ、今のあたしには、仕事が一番大切なの。大輔よりも仕事を取ったのは、このあたしなんだから。こんなことくらいで泣いてもいられないし、幸い、涙なんかこれっぽっちも出てきやしないわ」
「しぐれさん……」
強がるしぐれを見て、遥の胸が痛んだ。
この人が、本当に大河内を愛していただろうことがひしひしと伝わってくるからだ。
「それと……。大輔、あたしがあなたを振って悪かったわね。でも。ありがと。あなたに振られたわけじゃないって、そう思うことで、あたしも前を向いて、これからも頑張れる。大輔も仕事頑張ってね。そして、そして……」
柊さんと、お幸せに……という言葉を最後に、しぐれは部屋を出て行った。
遥は、椅子に座ったまま項垂れる大河内を部屋に残し、しぐれを追って急いで店の前の駐車場に向った。
振り返ることもなく素早く遥の車に乗り込んだしぐれは、助手席に座ってシートベルトをしたとたん両手で顔を覆い、どこでもいいから高速をぶっ飛ばしてちょうだい、と叫んだ。
時折聞こえる震えるような吐息に、彼女が泣いているだろうことは簡単に想像がつく。
その痩せた華奢な肩を小刻みに揺らしながら、決して声を漏らすことも涙を指に滲ませることもなく泣いていた。
恐ろしいまでの女優魂を見せ付けられているようだった。
しぐれは全身で泣いているのだ。誰にも涙を見せずに、心で泣いていた。
渋滞で一向に進まないおびただしいほどの車列の中、車を飛ばして欲しいというしぐれの希望が叶うことはなかったが、遥は一度も口を開くことなく、夕日を背にして東方向にゆっくりと車を進めた。
そして本田邸に車を滑り込ませる。
「しぐれさん。着きましたよ。撮影スタジオでの仕事の話、嘘でしょ? ここで良かったのかな? 」
遥は、本田邸の駐車場に車をバックさせながら言った。
しぐれが言った仕事の話は、大河内との別れを引きずらないため、切り出した口実だろうと思っていた。
スタジオになど向かっていないことは、彼女もすでにわかっているはずなのに、何も言わずここまで来たのだ。
何よりもそれが真実を物語っていると遥は確信していた。
「堂野君……。ありがと。ここでいいわ。でもね、仕事の話……。本当なの」
遥の心臓がドキッと跳ねる。
自分の勝手な判断で本田邸にまで連れて帰ってきてしまったことに自責の念が押し寄せる。
今からスタジオにもどるとなると、あの渋滞を見る限り、かなり時間のロスになる。
間に合わないかもしれない。
しぐれはシートベルトをはずしながら、青白い顔のまま口元だけ微かに笑みを浮かべた。
「ふふふ。驚かせてごめんなさい。でもね、今日は仕事に行かない」
「いいんですか? 本当に? 」
遥は、しぐれの真意を測りかねるように訊ねる。
「あたしね、仕事に関しては、今まで優等生だったの。それはもう、お利口すぎるくらい。一度くらい、こうやって反抗してみたかった。ね……? 今日くらいいいでしょ? 行かなくったって、神様も許してくれるわよね? あたし……あたし……」
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