181.恋のベクトル その3
「大輔……」
「僕がアメリカに渡る前は、お互い忙しすぎて会うこともままならなかっただろ? 電話だけでは伝えきれないこともある。だから……」
「だから? 」
「……今日を最後に、しぐれ。君とはもう会わないつもりだ。君が本当に必要としてるのは僕じゃないだろ? 僕が君に傾倒すればするほど、君はどんどん遠く離れていく。君が何を見てるかは、しぐれ自身が一番よくわかっているはずだ」
男は、両手で顔を覆い、頭を抱えるようにして低く呻いた。
そして苦しそうに歪んだ顔を上げると、目の前の遥を見据え、ゆっくりと口を開く。
「……堂野」
遥は無言のまま男を見た。
「蔵城と……」
「柊……と? 」
遥は男が言ったことを確認するように訊き返す。
「ああ。彼女とロスで会った」
「あ……」
遥は呆然として男を見た。
「今、彼女と付き合っている。もちろん、将来は彼女と結婚するつもりだ」
「な、なんだって? 」
耳を疑った。男はいったい何を言っているのだろう。
遥の心臓がありえないほどの鼓動を打ち鳴らす。
「だから、今後彼女のことは、僕が守るから。堂野。言っておくが、君には僕を非難する資格はない。彼女を何年も一人にしておいて、今更恋人気取りもないだろ? 」
その男、大河内大輔は、ゆるぎない決意を言葉の端々に滲ませ、完全に血の気の失せた遥に威圧的な眼差しを突きつけた。
「大河内、おまえ……」
「大輔……。それ、どういうこと? 」
遥の言葉を遮るようにして、しぐれの声が重く部屋に響き渡る。
しぐれは微動だにせず、テーブルの上の携帯をじっと見つめながら、もう一度繰り返した。
「ねえ、大輔。いったい、どういうこと? 」
幾分冷静さを取り戻した大河内が、淡々と語り始めた。
「さっき言った言葉どおりだよ。今は彼女のことしか考えられない。蔵城とは昨年の秋に再会して以来、ほとんど毎日のように会っている。彼女も僕と会うのを楽しみにしてくれているよ。これからは、ずっと一緒にいようって、約束したんだ」
「そ、そんな……」
しぐれは両手で口元を押さえ、思いっきり目を見開いて大河内を見ていた。
「しぐれ、堂野。言っておくけど、僕はただの思いつきで彼女と付き合っているわけじゃない。ロスで偶然彼女に出会えたことに何か特別な意味があるんじゃないかとさえ思っている。こうなる運命だったってね。彼女も、僕と結婚して一緒になることに同意してくれている」
「やめて! 言わないで! それ以上、何も……言わないで……」
しぐれは懇願するように大河内に訴えかける。
そして携帯を両手で握り締めると、真っ直ぐに顔を上げたまま肩を震わせて、涙を堪えるように唇をかみしめていた。
「大河内。それ、本当なんだな? 」
遥は今にも崩壊しそうなしぐれを視野の隅に置きながら、大河内に問いただす。
「本当だ。嘘だと思うなら、真木部長に聞いてみてくれ。君と部長も、そして奥さんと蔵城も親戚だというし。相変わらず君達の縁の深さには驚かされるばかりだけど……」
大河内は、ふっと息を漏らしながら薄く笑った。
「ああ、おまえの言うとおり、真木家は母方の親戚筋だ。裕太兄さんには、聞くまでもないさ。俺はそんなこと、訊ねる資格のない人間だからな……。大河内、おまえにこんなこと言えた義理じゃいけど。柊は、たとえ別れた今でも、大事なかけがえのない俺の身内なんだ」
「…………」
はっとしたように大河内が遥を見た。
「大河内、おまえの気持ちはよくわかった。だから、だからあいつを……。頼む。俺が果たせなかったことも、おまえならきっとできる」
本当は目の前の男につかみかかって張り倒してやりたかった。
けれど、この男を、大河内大輔を柊が愛したと言うのなら、遥は彼女の幸せを奪い取るようなまねはできなかった。
「堂野……」
「柊を幸せにしてやってくれとか、そんな安っぽいことを言うつもりはない。ただ、あいつの心の支えになってくれるのなら、それ以上は何も望まないよ。孤独は人の心を蝕む。俺はこの四年、身も心も施しようがないくらいボロボロになった。もちろん自業自得だから、誰も責められない。何かを得れば何かを失うのは自然界の摂理だからな。その点、柊は強いよ。すっかり立ち直っているみたいだしな……。あいつを救ったのはおまえなんだろ? 俺じゃなくて大河内、おまえだったんだ。それがすべての答えだよ」
遥は立ち上がり、青ざめた顔をして必死に平静を保とうとしているしぐれの肩に手を添えながら、もう一度大河内を見た。
「だがおまえは最低だよ。俺と柊のことはなんとでも言ってくれていい。でもしぐれさんはどうなる? しぐれさんは、まだおまえと別れることに納得していないんだぞ! 」
「堂野……。さっきも言ったとおり、これは僕としぐれの問題なんだ。二人にしかわかり得ない。そしてそこには埋められない深い溝があるんだよ。僕なりにしぐれとはけじめをつけていたつもりだ。蔵城と出会ったのは、しぐれに別れを切り出したあとだ。だから今日、こうやって会って、僕の本当の気持ちを伝えることで、しぐれに理解してもらおうと思ったんだ。僕は謝らないよ。振られたのは結局僕だったと思ってるからね。これ以上一緒に居ても、お互いが不幸になるばかりなんだ……」
「大河内。おまえが振られたことにして、それがしぐれさんへの思いやりだ、とかいうのなら、それはおまえが間違ってるぞ。しぐれさんはおまえを振ってなんかいない! その証拠に、こんなにもおまえのことを思っているじゃないか」
「それは……」
「大河内。おまえが柊のことをずっと思い続けていただけなんじゃないのか? しぐれさんを、ずっと騙していたんだろっ! おい、大河内、何とか言えよ! 」
「辞めて! 堂野君。お願い。大輔をこれ以上責めないで! 」
間に割って入ったしぐれが、大河内をかばうように声を荒げた。