180.恋のベクトル その2
「堂野君、明けましておめでとうございます」
「あ……。おめでとうございます」
そうだった。今日はまだ二日。
世間では正月の真っ最中だったと思い出し、ぎこちなくしぐれと挨拶を交わした。
「来てくれたのね。ありがとう」
「いいえ。俺で役に立つのなら……」
「ここの店、わかった? 」
「はい。ナビを頼りに、なんとかたどりつきました」
町田は駅前のマルイにちょっと立ち寄ったことがあるくらいで、土地勘は全くない。
ナビがなければ約束の時間に着けなかっただろう。
「大学の研究が忙しいのでしょ? 雄太郎が言ってたわ。あなたったら、家にも帰らず、ずっと研究室に閉じこもってるって」
「あ、いや。いつものことですよ。結局、今年は帰省もしなかったので、こうやってここに来れたってわけです」
「ご家族の方も寂しがってるわね。無理言って本当にごめんなさい。それでね、ここなら誰にも見られないし、ゆっくり話が出来ると思って……」
「そうですね。いいところですね」
冬の陽射しが優しく注ぐ庭を眺めながら、遥は答えた。
「大輔は、もうすぐ来るわ」
しぐれはそう言って席に着き、テーブルの上の携帯に目をやる。
まるで大河内からの連絡を今か今かと待っているかのように、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
遥は円形テーブルを囲むように置かれた四つの椅子の一つに腰掛けると、あまりにもいつもと違うしぐれを見かねて、気遣うように話しかけた。
「しぐれさん、大丈夫ですか? あまり寝てないんじゃないですか? 」
赤みが一切感じられない、透けるように白い顔をしたしぐれに訊ねる。
「ふふふ。大丈夫よ。撮影が押しててね……。新年早々仕事なんだもの。でももう慣れっこよ。堂野君こそ疲れてるんじゃない? ずっと勉強ばかりしてるんでしょ? 」
「ええ、まあ……」
図星とばかりに苦笑いを浮かべた遥だったが、疲れきった二人がこの先うまく大河内を相手に話を進めていけるのだろうかと、一抹の不安がよぎる。
ため息ばかりつくしぐれを前に、二杯目のコーヒーに口をつけた時、部屋のガラス戸が開いた。
すっと冷たい空気が部屋に入り込む。
白っぽいコーデュロイのパンツに紺のハイネックセーター姿の男が静かに現れた。
男は遥と目が合うと目を見開き、はっと息を呑んで、その場に立ち止まった。
「堂野? なんで君がここに……」
男が混乱しているのが手に取るようにわかる。
「よお、久しぶりだな。新しい年を迎えたばかりのめでたい時に悪いが、おまえに言いたいことがあって」
「言いたいこと? 」
細いフレームのめがねをかけた男の目が、レンズの向こう側で鋭い閃光を放ったように見えた。
「そうだ。しぐれさんを泣かすのはどこのどいつなのか、この目で確かめに来たんだ」
挑発的な遥の態度にますます表情を堅くしたその男は、思い直したように前に歩み出ると、しぐれの左隣の椅子に乱暴に腰を下ろす。
そして、ふうっと深呼吸を繰り返したあと目を閉じ、テーブルの上で指を組んだ。
男の前にコーヒーが運ばれ、部屋のドアが閉まると同時に、しぐれがその重い口を開いた。
「大輔……。元気……だった? 」
その声は今にも消え入りそうに弱々しかった。
しぐれは少しだけ男の方を見て、またすぐに目を逸らす。
「ああ。元気だよ。君は? 」
「あ、うん。あたしは……元気よ」
どこをどう見ても元気そうには見えないしぐれが、力のない笑顔を浮かべてそう言った。
「そうか。それならよかったよ。で、仕事は? 忙しいの? 」
「うん。ドラマの撮影とか入ってるし」
「そう……か」
すぐ横にいるしぐれを一切見ることなく、男が頷く。
「ねえ、大輔。あたしたち、本当にもうおしまいなの? 」
しぐれは意を決したかのように男の方に体ごと向け、彼を覗き込むようにして訊ねる。
「前に言ったとおりだ。君とよりを戻すつもりはない。今日はそのことを、はっきりと君に伝えようと思って会いに来たんだ」
「そう、なんだ……」
しぐれは再び前を向き、つぶやくように言った。
「しぐれ、君がこいつを呼んだのか? 」
ほんの一瞬だけ遥と目を合わせた男が、とげとげしい口調で訊ねる。
「ええ、そうよ。あたしが彼を呼んだの」
「そうか。堂野を使って、どうしようと? 」
「だって、大輔ったら、急にあんなこと言い出すんだもの。あなたのことは、誰にも相談できないあたしの身にもなって。堂野君しか、あたしたちのことをわかってくれる人、いないじゃない! 」
しぐれが男に激しく詰め寄る。
「そうかもしれない。でも、これは僕たち二人の問題で、堂野は関係ない」
「もちろん、あなたの言うとおりよ。でも、あたしが何を言ってもだめなんでしょ? 」
「ああ。もう、元には戻らないんだ。誰が何と言おうと……」
男はテーブルの上で組んでいた指をほどき、こぶしに力を込めた。