178.帰るなんて言わないで その3
「実は、あたしたちね、あなたが思っているほど付き合いが長いわけじゃないの。堂野君に大輔を紹介してもらったあと、しばらくはただの友達関係だったのよ」
「友達、関係? 」
「そう。ただの友人。同世代の一般人女性だと、そんなプラトニックな付き合いをしてる人も多いのかもしれないけど、あたしには結構新鮮だった。あなたも少しはこの世界を知ってるから、わかるだろうけど。純粋に一緒にいるのが楽しくて会話だけで繋がっていられる男女関係って、今までに経験したことが無かった。男性との付き合いといえば、まず身体の関係ありき……って感じだったもの」
しぐれの口から語られる内容は、遥にとってかなり刺激的なものだった。
しかし、変にお茶を濁されるより、わかりやすくていいのかもしれないと思い直してみる。
しぐれの率直な思いが、ストレートに遥の心に響いてくる。
だからといって、皆が皆、しぐれのような男女関係を実践しているというわけではないのだが、遥自身、当時の仕事仲間から、あからさまに誘いを受けたことがあったのは紛れもない事実だ。
仕事の休憩の合間や打ち上げの席、あるいは、撮影の終わりを見計らっての待ち伏せなどで、彼女たちは堂々と自分を売り込み、体当たりしてきた。
ところが当時、しぐれと付き合っているという触れ込みが効を奏したのか、しつこく迫られることはなく、見込みがないと判断すると、あっさりと退散してくれたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
「堂野君、あのね……」
しぐれの声が小さくなる。
まだ何か言い足りないようだが、躊躇している様子が見て取れる。
「昔……。噂されてたことなんだけど。あれ、ホントなの……」
「噂されてたこと? 」
もう何を聞いても驚かない自信はあったが、しぐれの身の上に、これ以上いったい何があるというのか。
にわかに遥の脳内が混乱し始める。
「三十七歳の若手プロデューサーとの不倫って、話し。あれは、本当なの」
「あ……」
「別に彼に無理強いされたわけじゃないんだけど、あたしの中で、仕事と恋愛がごちゃまぜになっちゃって。彼の大人っぽくてそれでいてやや破天荒な生き方に惹かれる自分を止められなかった。彼がささやく甘い言葉の数々も、あたしをこの上なく有頂天にさせてくれた」
「しぐれさん……」
「でもね、ある日彼のシャツの香りにふと目が醒めたの。それはとてもいい香りで。クリーニングの香りじゃなくて、家庭洗剤の香り。甘くて心安らぐ香りだった。そうだ、この人には家庭があるんだって思ったら、急に虚しくなって。家に帰れば奥様と子どもさんがいて、彼を平穏な幸せに包み込んでいるのよ、きっと。彼は離婚するって言葉、ついに一度も言わなかった。わかってるだろ、俺たちの立場、としか。あたしはいったい、この人と何をしてるんだろう、何も未来なんてないんじゃないかって……」
しぐれが遠い目をして、淡々と語った。
「そうですか。別に俺がとやかく言うことではないですから。しぐれさんの人生です。あなたの思うようにすればいいのでは……」
「もちろん、そうよ。あたしの人生はあたしが責任を持つ。誰も幸せにならない恋愛は、あの瞬間できっちりと断ったわ。おかげで、彼がらみの仕事はなくなってしまったけど……。あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、堂野君、あなたのことなの」
「えっ? 俺のこと? 」
突然自分に話題が振られると、とたんに遥は無意識であっても身構えてしまう。
「何もそんなに睨まなくても……。堂野君と偽りの恋人同士になった時、実はあたし、覚悟はしてたのよ。あくまでも気持ちの上では偽りの恋人であったとしても、あなたに関係を求められれば、応じる気でいたの。男ってそんなものだと思っていたから」
しぐれのとんでもない発言に、遥は声も出ない。
「でもあなたって、ホントに真面目なんだもの。これっぽっちもそんな態度は見せないし、あたしに指一本、触れようともしなかった。柊さんに一途で、それは見事なまでの紳士っぷりだったわ。そしたらどう? 大輔も同じなんだもの。あなたたち外見は全く違うけど、中身はよく似てるのよ。気付いてた? 」
大河内の話題になると、急にいきいきと瞳を輝かせ、よどみなく話し始めるしぐれに戸惑いを隠せない。
それにしても、なんで大河内と自分が似てるんだ。
遥の怒りは収まらない。
そのような話しには、わずかたりとも納得できなかった。
「もう、堂野君ったら、ちゃんと聞いてる? それでね、大輔が好きで好きでたまらなくなったあたしが、彼が大学を卒業した時に告白したの。付き合ってって。あなたの彼女にして欲しいって。彼、最初はかなりとまどってたみたいだけど、女性に恥をかかせられないとか、いろいろわけのわからないこと言いながらも、結局返事をくれて。それで正式に付き合い始めたってわけ」
その後も延々と二人のエピソードを聞かされた遥だったが、しぐれの元気なそぶりもついにここまでだったのだろう。
大きく深呼吸をしたしぐれの口から、驚愕の一言が発せられたのはその直後だった。
「大輔ね、アメリカに行ったの。社内で大抜擢されて、期間限定のロス支店勤務の辞令がおりて……」
「ロスだって? それ、本当なのか? 」
遥は自分でもコントロール出来ないくらい心臓が高鳴り始めるのがわかった。
走っているわけでもないのに、肩で大きく息をついてしまう。
「そうよ。本当よ。あたしだって、何も知らないわけじゃないわ。柊さんもいるのよね? ロスに……」
目に見えない運命の歯車が、全く意図しない別の方向に回り始めたのを、遥は今確かに感じ取っていた。
まるで足元の床が突然抜け落ちて谷底に吸い込まれていくような、映画のアクションシーンさながらの衝撃を、全身で受け止めていたのだ。
その日、引き止めるしぐれを振り切り、入れ替わりに帰宅した伊藤小百合への挨拶もそこそこに帰路に着いた遥は、自宅には帰らず、床がきしむ古い建築の大学研究室へと向かっていた。