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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
第五章 しれん
176/269

176.帰るなんて言わないで その1

 研究室をいつもより早めに出た遥は、車で本田邸に向っていた。

 最後に本田邸を訪れたのは三回生の時だったはずだ。

 ざっと三年ぶりということになるのだろうか。


 先輩である本田雄太郎は大学卒業後、若者に絶大な人気を誇るメジャーな劇団に所属し、現在公演中の時代劇風レビューの舞台で準主役を演じるほどの役者に成長していた。

 今夜も公演があるので、本田は家にはいないはずだ。


 遥は本田邸に行く前に祖父の経営する和菓子屋の支店に立ち寄った。


「いらっしゃいませ」


 少し年配の店員がにこやかに出迎える。これは祖父のポリシーだ。

 各店舗には必ず人生経験豊富なアルバイトが配属されている。

 客の立場にたって配慮のできる店員がいてこそ、店が繁盛するのだと、常々祖父が遥に説いていた。


「どのような物をお探しでしょうか。もしお差し支えなければ、ご進物用かご自宅用かお伺いできましたら……」


 などと訊いて来るが、彼女は遥が商品を見ている視線、あるいは彼の身なりですべてを見抜いているはずだ。


「あ、そうですね、ちょっと手土産になるものをと思って寄ってみました」


 モデルをやめてからは髪の色も黒に戻し、至って地味な服装で出歩くため、滅多に堂野遥だと気付かれることはなくなった。

 店員を騙すつもりはないが、自分から社長の孫だと告げる必要もない。

 遥は普通の客の一人として、この店員と向き合っていた。


「お客様、こちらの詰め合わせなどいかがでしょう。ご訪問先の人数によりまして、この三つの中からお選びいただけますとよろしいかと……あ、あのう。失礼ですが、もしかしてぼっちゃまでは」

「いや、その」

「ちょっとお待ちください。店長、店長……」


 店員が血相を変えて、奥の部屋に消えていく。

 これは困ったことになった。


「ああ、ぼっちゃま。どうなさいました。何もこんなところにおいでいただかなくても、電話でお申し付けくださればすぐにご用意いたしましたのに。前にもそう申したはずです」


 ポスターの撮影時にも世話になった女性店長が恐縮しながら陳列ケースの前に出てくる。


「すみません。ちょっと急用ででかけることになって、訪問先のご婦人がうちの菓子類を気に入ってくださっているので、それで……。仕事の邪魔をしてしまって、本当にすみません」

「邪魔だなんて、そんなことありませんから。どうか私になど頭をお下げにならずに、お顔をお上げください。ぼっちゃまはいつもそのようにおっしゃって、私どもを気遣ってくださるのですね。ああ、社長になんと申し上げればいいのか。今、商品を包んでおりますので、もうしばらくお待ちください」


 店長とのやり取りを聞いていた他の客が、ちらちらとこちらを見ている。

 いたたまれなくなったが、すでに商品の用意をしていると聞いた以上、店を出るわけにはいかない。


「お待たせいたしました」


 店長自らが紙袋を持って再び遥の前に現れる。

 そして差し出された商品はずっしりと重みを感じる。

 その包まれた箱の形状で中身が何であるか想像がついた。

 和栗を使用した、店内でも一番値の張る人気商品だ。

 それも二箱重ねて入れられていた。


 遥は財布から代金を出し、店長に払おうとしたが、案の定、受け取ろうとはしない。


「ぼっちゃま、他のお客様も見ておいでです。ここはどうか私に免じて、そのお代金をご自分の方にお収めください。ぼっちゃまからお代を頂戴するなんて……」

「いえ、それは違います。祖父はそのような甘えは決して許さないと思います。店長のご好意には感謝しますが、僕は社長の孫であるというだけで、経営者でもなんでもありません。代金を受け取っていただけないのなら、この商品も受け取れません」


 遥は紙袋を壁際にある赤い毛氈の敷かれた台の上に載せ、店から出て行こうとした。


「お待ちください。わかりました、ぼっちゃまのおっしゃるとおりです。社長のご意向は、きっとぼっちゃまのおっしゃるとおりなんだろうと思います。では遠慮なくお代を頂戴いたします」


 遥はきっちりと支払い、紙袋を下げて店を出た。

 駐車場に止めてある車は、あの時のままの軽自動車だ。

 祖父も一般的な国産自家用車を一台所有しているだけだ。

 遥はそれでいいと思っていた。

 祖父が自ら態度で示してくれる堅実さを、知らず知らずのうちに遥も受け継いでいたのだ。



 本田邸の荘厳な門をくぐると、昔作りの洋館内にある天井の高いリビングで、しぐれが普段着姿で遥を迎えた。

 気のせいだろうか。もともと細い人だったが、少しやせたような気がする。

 彼女は今しがた取り繕ったような笑顔を貼り付けて遥を室内に招き入れた。


「堂野君、急に呼び出したりしてごめんなさい」

「いえ、お久しぶりです……。あの、これ」


 遥はさっき購入した菓子包みをしぐれに渡す。


「あら、ありがとう。小百合ちゃんも、あたしも、こちらのお菓子の大ファンなのよね。でもね、小百合ちゃんは今ちょっと留守なの……」

「留守? そうですか……」

「やだ、勘違いしないで。小百合ちゃんは、今年から少しずつ仕事を再開してるの。今日はドラマの初顔合わせ。遅くなるけど、あなたのことはちゃんと報告しておくから、心配しないで。ここには他にも人がいるんだし、小百合ちゃんがいない隙に、あなたを誘惑しようだなんて、思ってないから」

「当然です。あなたはそんなことをする人じゃない」

「ふふふ。堂野君、あなた、ちっとも変わってないわね」


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