175.あなたに会いたいの
空港で力の限り、ひいらぎと叫んだ時、振り向いたのは見ず知らずの女性だった。
遥も気付いていたのだ。
たとえ後姿であったとしても、心から愛した女を、そう簡単に見間違うことなどあるはずがないことを。
よく見れば、髪の長さも色も、手の仕草さえ柊のそれとは全く違った。
それでも彼女の名を呼ばずにいられなかった遥の心は、これ以上柊への想いを偽り続けることに、悲鳴を上げていたのかもしれない。
限界だったのだ。
その日以降、遥は今までに感じたことのないほどの激しい絶望感に、たびたび襲われていた。
二人の思い出のアパートにも、生まれ育ったあの村にも。
そして日本中のどこの地にも、もう柊はいないのだという現実に押しつぶされそうになる。
いったい何のために生きているのか。
彼女のいない人生など、どんな意味があるというのかと自問自答を繰り返す日々。
ものごころ付いた時からいつも近くにいた柊が今はいない。
本当は誰よりも負けず嫌いのくせに、努力はしたくないという、どうしようもなく残念で救いようのない性格だった柊が、次第に誰よりも女性らしく優しい微笑を見せるようになり、どういうわけか愛しくて、可愛くて、彼女にすっかり心を奪われてしまったのだ……。
はるか、はるか、と常につきまとわれて、口ではうるさい、あっちへ行けなどと言いながらも、内心は嬉しくてたまらなかった子供の頃。
いつのまにか遥の知らないところで、別の男に興味を抱き始めた彼女に、言いようのない嫉妬心を抱き、悶々とした日々を送っていた中学時代。
まさしく遥にとっては、最大の暗黒の時代だったと言えるだろう。
それでも今の状況に比べればずっと幸せだった。
何が何でも柊を振り向かせてみせる、絶対誰にも彼女を渡さない、という確固たる意志が常に存在していて、今よりもがむしゃらに生きていたという自信がある。
「遥って、すごいよ! 」 と心から嬉しそうにはしゃぐ彼女のこの一言が欲しいあまり、嫌いだった勉強も、苦手だった団体競技も、柊のためなら何だって頑張れたのだ。
勇気をふりしぼって、プロポーズをしたのが十五の秋だった。
心臓が飛び出しそうになるほどの緊張の中、結婚を約束したにもかかわらず、いつもと変らない表情で、うんと返事をしてくれた彼女に肩透かしを食ったこともあった。
彼女から返事をもらったあかつきには、抱きしめてキスをすると前々から決めていたシナリオがあったにもかかわらず、彼女と両思いになれた嬉しさと、どうしようもない気恥ずかしさで舞い上がってしまい、予定を実行できなかったのだ。
その日の夜、自分のふがいなさを妹にぶつけ、八つ当たりしたことも忘れてはいない。
大学生になり、一人暮らしの彼女の家に日々通ううち、自制心が効かなくなりすべてを求めるもギリギリのところで拒否された時の理不尽さは相当な打撃だった。
嫌われているのだろうかと不安になったこともあった。
本当は好きでもない自分と、腐れ縁と言うだけで一緒にいるのではないかと疑心暗鬼になったりもした。
けれど、サークルの先輩女性を連れ帰った時の誤解をきっかけに同居するようになり、すべての懐疑心が思い過ごしであったとわかる。
まるで新婚ごっこのような甘い日々の中で、ようやく身も心も一つになった喜びにあふれていたあのころ。
愛し愛される毎日がこの先永遠に続くと信じて疑わなかったあのころは、もう二度と戻って来ないのだろうか。
春休みになればまた彼女は日本に帰国する。
いや、遅くとも夏休みには絶対帰って来るだろうと思っていたことなど、遥は今になってみれば、その見通しの甘さに、自分を殴りたくなるほどの後悔に苛まれる。
その時になれば柊も頑なな態度を改めて歩み寄ってくるかもしれない。
その日まで、待とう。そうだ、きっと大丈夫……。
などと何を根拠にそんな都合のいい発想ができたのだろうと、自分の浅はかさにあきれるばかりだった。
シカゴに渡った翌年の初夏に、彼女の母親の従姉妹がいるロサンゼルスに居を移して、はや三年以上になろうとしている。
遥はその間、結局一度も柊と会うことはなかった。
遥の母親は、それがどういうつもりなのかはわからないが、柊が一時帰国するたびに遥に連絡を入れてきた。
柊と会えと言うことだったのだろう。
遥はわざと避けるようにして、実家には近付かなかった。
本当は会いたくて会いたくてたまらないのに、まだ彼の心のどこかに頑なな何かが残っていて、踏みとどまらせるのだ。
もちろん、彼女本人からの連絡は全くない。
それが答えなのだろう。自分は彼女にとって、もう必要のない人間だと証明されたも同然だった。
遥は母親の行動そのものも疑い始めていた。
その後も柊の帰国に合わせて連絡をくれることの本来の意味に、ついに気付いてしまったのだ。
柊が遥に会いたくないと言っているので、自分を近づけないために母親が連絡をしてくる……という筋立てだ。
この期間は彼女が滞在しているから帰省するなと暗に言ってるように思えてならない。
もしそれが真実だとしたら。
つまり柊がもうすでに遥のことはとっくに忘れ去っているのだとしたら……。
会うこと事態、何の意味も成さなくなる。
もし偶然、どこかで再会することがあったとしたら、ただの親戚同士として、あいさつ程度の必要最小限の会話をし、他人のように振舞え、ということなのだろう。
子どもの頃から築いてきたものが、すべて崩れ去ってしまった事実を受け入れる時がとうとう来たのかもしれない。
遥は昨年大学院に進学し、今ではモデルの仕事もキッパリ辞めて、研究論文の作成に余念がない。
教授に、まだ大学に残って研究を続けないかとも誘われたが、内定をもらった都内の放送局への就職のキップは、とてもじゃないが手放せそうになかった。
ようやく叶った夢を彼女に一番に報告したかった。
遥がどれほどの思いで、この仕事にあこがれを抱いていたのかを知るのは、他ならぬ柊だけだったのだ。
もちろん、彼女と別れて以降、誰とも付き合っていない。
寄って来る女性は後を絶たないが、たとえいい子だとわかっている相手であっても、二人きりで会うのは怖くてできなかった。
芸能活動から引退した今となってはマスコミに追われることはもう絶対にないのに、トラウマ状態が続いているのだと思う。
自分はもう二度と女性を幸せにすることは出来ないと思い込んでいた。
すでに遥の就職先が耳に入っているだろう彼女からは、もちろん何も連絡はない。
それが全てを物語っているのだ……。
大学の研究室の窓から色付いた桜の葉を眺めながら、柊への思いを馳せている時、マナーモードにしている携帯がブルルと震えた。
遥は相手の名前を確認し、携帯を開いた。
「もしもし……」
『ふふ、堂野君? 』
「ああ……。久しぶりです。お元気でしたか? 」
『ええ。まあね。あなたも元気そうね』
「はい。それなりに普通に過ごしています」
『それにしても、堂野君ったら、なんか他人行儀だわ』
「そりゃあそうですよ。もう、そちらの世界とは、すっかり疎遠になってますから」
一時はニセモノの恋人同士ということで親しくさせてもらっていた、というだけの相手に、馴れ馴れしく接する理由はもうどこにもない。
『堂野君。急なんだけど、今夜会えない? あなたの就職のお祝いも兼ねて』
「就職祝い? でも、まだ内定の段階ですよ」
『そんなの、決まったも同然じゃない。……ってのは口実。本当はあなたに会いたいの』
「どういうことですか? 」
『どうしても……。会いたい。あなたに会いたいの。お願い、助けて……』
なつかしいその声の主は、次第に言葉を詰まらせ、携帯の向こうで泣いているのがわかった。
「しぐれさん。しぐれさん? 何があったんですか? もしもし、しぐれさん? 」
遥の呼びかけに、しぐれが応えることは無く、そのまま電話は切れてしまった。
しばらくして届いたしぐれのメールには、今夜、本田邸に来て欲しいとそれだけが記されていた。