174.悪夢
空港施設内は多くの人で賑わっていた。
これから海外旅行に行く人や、見送りの人もいる。
日本での滞在を終えて、自国に帰って行く人も多いのだろう。
どの顔も輝いていて、希望に溢れているように見える。
ポインセチアの紅い葉が空港内に彩を添え、各所に飾られたクリスマスツリーが人々の心をなごませるのだろう。
それらのオブジェの前で記念撮影をする人たちを横目に、人をかき分けて進んでいく。
今日はクリスマスイブだというのに、遥の心はそれに反するように沈み込んでいくばかりだった。
出発ロビーを目指して、以前留学する友人を見送った時の記憶を頼りにエスカレーターに乗る。
刻々とフライト時刻が迫ってくるなか、お願いだからもう少し待っていてくれと、まだ姿が見えない柊に向かって念じる。
けれど心配性で几帳面な柊のことだ。
すでに搭乗手続きを済ませてゲートをくぐっていてもおかしくない。
そう思ったとたん、遥は無意識にエスカレーターの右側を駆け上っていた。
途中、旅行客のスーツケースが行く手をふさぎ前に進めなくなる。
そんなわずかな時間さえ今の遥には永遠と思えるくらい長く思えた。
「あのぅ……」
突然彼の前に立っている二人組みの女性に声を掛けられた。
「もしかして、堂野はる……」
今日ばかりはいつものように笑顔で応じている時間はない。
深めにかぶっていた帽子を少し上にあげ、目の前の大学生風の女性の一人と視線を合わせる。
「ごめん。ちょっと急いでるんで」
すかさずそれだけ答えて、わずかなすき間を縫っていっきに上まで駆け上がった。
「やっぱ、今の、堂野遥だよね。見た? ねえ、見た? 」
「見たよ。絶対そうだよ。うわっ、足、ながっ! めちゃかっこいい! 」
「うんうん。顔、ちっちゃーいよね」
「だよね、だよね……」
背後に繰り広げられる会話も、次第に場内の喧騒にかき消される。
遥のことに気付いた二人から遠ざかったところで、ポケットから携帯を取り出し、一昨日の母親からのメールを開く。
ランデブープラザ前にいるから、という文を再確認し、スーツ姿の空港職員らしき人を呼びとめ場所を訊ねた。
職員が指差したのはちょうど中央部あたりのインフォメーションのようなところだった。
そこへ足早に駆け寄ると、遥の姿に気付いたのだろう。
よく見慣れた人物が椅子から立ち上がり、苛立ちの声を上げている。
「遥! 遅いわよ。何してたのよ。もう来ないのかと思ったわ。牧田さんから聞かなかった? 」
「ああ、聞いたよ」
「なら、どうして? あと五分早かったら、なんとかなったかもしれなかったのに……」
「道が混んでて……。で、柊は? 」
「もう行ったわよ。実は柊ちゃんには、遥に連絡したって言ってないのよ」
「だろうな……」
「だって、あの子、あなたには絶対に何も言うなって。それはもう、必死になって私を止めるのよ。遥の重荷になりたくないって。だから、あの手この手でさっきまでここに引き止めていたんだけど、もうこれ以上引き伸ばせなくて。夢美ちゃんは柊ちゃんを見送ったあと、おみやげを買いに……」
遥は母親の話の途中で、手荷物検査のところに並んでいる人の列に向かってすでに走り出していた。
ついさっきまでここにいたのなら、まだ間に合うかもしれない。
違う。違う。この人も違う。
柊はもうそこには並んでいなかった。
わずかばかりのすき間から見える人影を追うが、柊らしい人物は見えない。
すると、白いコートを着た背の高い女性が遥の視界に飛び込んできた。
あのシルエットは、もしかして。
柊かもしれない。
そうだ、きっと柊だ。
「ひーらぎーっ! 」
遥は人目も気にせず、声の限り彼女の名前を叫んでいた。
なつかしい甘いフルーツの香りが徐々に遥の心を満たし、思わず目の前の白い首筋にゆっくりと唇を這わせていた。
壊れてしまわないように、そっとなぞっていくのだ。
触れるかどうかのぎりぎりのところで彼女の反応を見る。
そして遥の熱い唇が鎖骨のくぼみに辿りついた時、彼女は、ああ、とため息にも似たかすれた声を発しながら、ぴくりと小さく身体をよじった。
耳のすぐ後ろからこめかみまでを撫でるように口付けると、潤んだ瞳を湛えた彼女を見つめながらささやくのだ。
愛している……と。
その瞬間、頬を赤らめ、恥らうような笑みをこぼす彼女に誘われるように唇を重ねる。
時折漏れる吐息はどこまでも甘かった。
ところが……。
今腕の中にいたはずの彼女が、突如姿を消すのだ。
そのぬくもりも、その熱く甘い口づけも。
すべてが遥の目前から跡形もなく消えてしまった。
その後は決まってあの場面に切り変り、全身の力をふりしぼって声を張り上げる。
ひいらぎーっ、と。
叫び声にも似た悲痛なまでの呼びかけに振り向いたその女性は、怪訝そうに首をかしげ、自分には関係ないと気付くや否や、再び元どおりに歩みを進める。
振り向いた人は遥の知らない人。
柊とは似ても似つかぬ、全くの別人だった。
遥はそうやって、柊の名を何度も呼び、叫びながらようやく目を覚ます。
あの日。柊がシカゴに旅だってしまった日から、毎日のように見る夢……。
それは悪夢となって、来る日も来る日も、ずっしりと遥の心に住み着いてしまったのだ。