169.幻(まぼろし)のマルガリータ その2
それは、明日の昼過ぎの便で、柊が留学のため成田から渡米するという知らせだった。
留学を認めない彼女の父親との激しい諍いがあって、柊の母親は見送りに同行できないため、遥の母である綾子と篠川夢美が成田まで付いて来るらしい。
こと細かに行動予定時刻が記されて、まるで自分もそこへ来いと呼ばれているようにすら思える文面だった。
もちろん、明日も仕事がある。
親戚の見送りごときで休みをもらうなどもってのほか。
そもそも彼女の方から別れを切り出した上に会いたくないとまで言っているのだから、遥が行くこと自体無意味な気がする。
柊のことはあたしにまかせて、と篠川にぴしゃりと釘を刺されて以来、遥には連絡を取るすべも無く、柊からも全く音沙汰が無いまま今日に至っているのだ。
まさか柊が、ここまで本気で別れを決意していたとは遥とて、想像だにしていなかった。
大いなる誤算だ。
明日彼女が渡米してしまえば、それは本当の別れを意味するということくらいは、彼自身もわかっていた。
明日成田に行って、柊を引き止めろと母親のメールが訴えているようにも思える。
柊と音信不通になって以降、母親に二度ほど電話口で泣かれた。
どうして柊を放っておくのか、仕事なんか辞めて彼女を探し出して説得しろと。
それが出来るのならとっくにそうしていた。でも出来ないのだ。
誰が何と言おうと、仕事よりも何よりも柊が大切なのは過去も現在もずっと変わらない。
けれど仕事を辞めても辞めなくても、柊と一緒にいることを選べば、彼女をトラブルに巻き込むことは目に見えている。
仕事の契約が切れるまで彼女に待っていて欲しいというのも、自分勝手な発想であることは否めない。
そんな中、彼女が自分の生きる道を見つけて羽ばたこうとしているのなら、遥には彼女を引き止める資格はないと思っていた。
またグラスが空になった。いったい何杯飲んだのだろう。
飲んでも飲んでも足りなかった。
文字がぼんやりと二重に見えてくる。
携帯を見るのをやめ、ポケットにねじ込んだ。
身体が熱くなり、上半身がふらついているにもかかわらず、まだまだ飲み足りないと思う。
店に来てすぐに出された小さなシルバーのトレイには、薄くスライスされたチーズとオリーブの実が、きれいに盛り付けられたままになっていた。
遥は少しかすれた声でマスターに声をかけた。
「すみません。マルガリータを」
「あ……。はい、かしこまりました」
マスターがややためらいがちに答えた。
「テキーラ多めでお願いします」
今夜は酔いたかった。何もかも忘れるくらい酔いつぶれてしまいたかった。
遥は空になったグラスを差し出しながら、きつめのカクテルを注文した。
「堂野さん、ペースが速すぎませんか? 明日もお仕事ですよね? 」
マスターは行儀よく並んでいる色とりどりのビンの中から一本を手に取り、タンブラーに注ぎながら遥に話しかける。
「ええ、そうです。でも、今夜は飲みたい、気分、なんで……」
次第にろれつが回らなくなってくる。頭も重い。
そして遥の前に出された透明の液体は、ほのかにレモンの香りがした。
マルガリータを頼んだはずなのに、それはカクテルグラスではなく、ましてやスノースタイルにもなっていない、ただのタンブラーに注がれた不思議な飲み物だった。
焦点の合わない目でタンブラーの位置を確認して手に取り、口に運ぶ。
するとレモンの酸味がじわっと口内に広がり、ゆるめの炭酸がのどの奥でぷちぷちと小さな音をたててはじけた。
「本日のスペシャルドリンクです。アルコールは抜いてみました。……それでもまだ飲み足りないとおっしゃるなら、何かお作りしましょうか? 」
慈愛に満ちたとでもいうのだろうか。
マスターの優しい眼差しに包まれた遥はふと我に返ったように顔を上げると、今夜はもうこれで店を出ようとようやく決心がついた。
十二月の夜は冷える。
薄いジャケットとマフラーだけでは、この寒さをしのぐには不十分だった。
酔い覚めだろうか。ジャケットを通り抜ける北風に身震いする。
ざっくりと編んであるニット帽を深めにかぶり、目元を覆うくらいまで引き下げた。
横を通り過ぎるタクシーは、どれもすでに先客が乗っていた。
タクシーに乗るのをあきらめた遥は、マンションまでの道のりをとぼとぼと歩いていく。
明日になれば、柊は日本からいなくなる。
シカゴに行くらしい。
柳田のところにでも転がり込むつもりだろうか。
そんなにも自分のことが彼女にとって重荷だったのだろうか。
日本にいられないくらいに。
大学はどうするつもりだろう。
まさか、もう日本に戻って来ないのでは……。
何もかも忘れたくて飲んだはずなのに、遥の頭の中は柊でいっぱいになる。
シカゴに行ってしまうのだ。もう会えなくなる。声も聞けなくなる。
顔も、身体も、彼女のすべてが遥から去ってしまう。
誰もいない公園をゆっくりと横切る。
グラウンドの隅に転がっている空き缶を見つけ、蹴り飛ばした。
それはカランカランと空虚な音を響かせ、あっと言う間に深夜の闇に消えていった。