167.カサブランカ その2
「いいのよ。気にしないで。でもね、あたしもこの状況を目いっぱい利用させてもらうことにしたわ。だって、誰にも何も隠すことないんだもの。一度暴露してしまうと、後は結構気楽なものね。たとえ堂野君とはかりそめの恋人同士だとしても、決められた台詞を言わなくてもいい、気負いの無い空間がこんなに心地いいなんて、想像すらできなかった。ただ、あなたには柊さんというちゃんとした彼女がいるのにこんなことになってしまって、なんだか申し訳ないんだけど」
しぐれの様子を見る限り、本田が彼女に柊と別れたことを言ってないのは明らかだ。
けれど遥は、しぐれにそのことをまだ言うつもりはなかった。
しぐれにしても遥に彼女がいればこそ、今のこの状況にも安心して身を置けるのだ。
この均衡を崩すわけにはいかない。
遥はなるべく柊のことには触れないよう、言葉を選んでしぐれと話し続けた。
「それはしぐれさんが気にすることじゃない。プライベートはそれぞれが責任を持つということでやっていくしかないですから。それよりしぐれさん。俺の同級生のことだけど。本当にあいつのこと、まだ気になってるの? 」
しぐれは手にしていたナイフの動きを止めると、頬を幾分赤らめて少女のような澄んだ瞳を小刻みにしばたたかせる。
「大河内さん、だったわね。実はあれから、一度だけ見かけたの。向こうは気付いてなかったけど、榎木山ホールの近くのカフェで取材があった時、他のスタッフの方たちと食事に来てたみたいで……」
「そうだったんだ。ならば声をかければよかったのに」
「そんなこと出来ないわよ。取材中だし、また格好のネタにされちゃうじゃない。心のままに行動することは、今のあたしには許されないことなんだもの」
遥はハタと気づいたのだ。
比較的自由に振舞えるしぐれであっても、気ままに男性に声をかけるのは許されないのだと。
自分だけがこんな窮屈な思いをしていると不満を抱いていた遥だったが、しぐれもやはり彼女なりに苦悩しているのだ。
柊と同じようにこの人も心を痛めているのかと思うと、言葉に詰まり、しばらくは口を開くことが出来なかった。
そろそろ本気で重い腰を上げ、しぐれの願いを叶えてやるべき時が来たのではないだろうか。
遥は腕時計を見て、今日この後と明日のスケジュールを思い出してみた。
そして、考えがまとまった直後、意を決してしぐれに言った。
「しぐれさん。俺、このあと、夜まで仕事がないんだ。大河内が榎木山ホールで仕事中なら、そこに行ってくる。それでなんとかしぐれさんとあいつが会えるように取り計らってみるよ」
大河内とどんな顔をして会えばいいのだろうかと不安がよぎるが、そんなことを言っている場合ではない。
「ほ、ほんと? いいの? ああ、なんだかわくわくしちゃう。こんな気持ち、中学生の時以来じゃないかしら」
「でも、困ったな……」
はしゃぐしぐれを前に、遥は思案顔になる。
というのも、しぐれとて遥と同様、外で別の男性と会うなどもってのほか。
写真など撮られようものなら、また大問題を引き起こすことになる。
「堂野君、どうしたの? 」
「うーーん、大河内が承諾したとして。そのあとしぐれさんとどこで会ってもらえばいいのか……」
「なんだ、そんなこと。簡単じゃない。小百合ちゃんの家で会えば、何も問題ないと思うけど」
遥は首をかしげる。
小百合ちゃん? いったい誰のことだろうと……。
「もう、堂野君ったら。小百合ちゃんよ。伊藤小百合。知らない人の前ではおば様なんて呼んでるけど、普段は小百合ちゃんって言ってるのよ。いいこと教えてあげようか? あのね、雄太郎も中学生くらいまではそう呼んでたの。ママとかお母さんって呼んでるのは聞いたことがないわ。今はあのとおり、お袋とか、おいとか言って、小百合ちゃんって言わなくなったけど。照れてるのかな? 」
遥はとんでもないカミングアウトに、危うくふき出してしまうところだった。
あの口数少なく気難しい本田が、自分の母親のことを名前で、それもちゃん付けで呼んでいたなどと、到底信じられるわけがない。
本田のことはさておき、気を取り直した遥は、伊藤小百合の家で会うというのはなかなかいいアイデアではないかと乗り気になっていた。
あそこであれば記者にスクープされることもない。
本田と遥の共通の友人ということで出入りすれば、誰も疑わないだろう。
そもそも大河内は一般人であり、まだ誰にもマークされていないので動きが取りやすい。
本当なら大河内の顔も見たくないというのが遥の本音だが、ここはもう目をつぶるしかない。
遥は携帯を取り出すと、しぐれの目の前で榎木山ホールに電話を入れて、大河内の勤務状況を確認した。
自分のせいで、好きでもない男と食事までさせられているしぐれのために、一肌脱ごうと腹をくくったのだ。
食事が終わり、花束を抱えたしぐれと一緒に店を出る。
手配してもらったタクシーに乗り込む直前に、待ち伏せしていた記者にインタビューを受けた。
交際は順調ですか? これからどこへ? など、ありきたりの質問に適当に答え、二人はタクシーに身体を滑り込ませた。
先にしぐれの事務所に向かい、彼女を送り届ける。
そして一人になった遥は、榎木山ホールに行ってくれるよう、乗務員に告げた。