166.カサブランカ その1
赤や黄に色付いた落ち葉が歩道の隅で小さく渦を巻き、木枯らしがビルの谷間をひゅうっと音を鳴らしながら吹き抜けていく十一月。
表参道からそう遠くはない青山でも人気のフレンチレストランで、遥は雪見しぐれとワイングラスを傾け、鴨のコース料理に舌鼓をうっていた。
「堂野君、今日は時間を作ってくれてありがとう」
膝の上のナプキンで口元を押さえ、しぐれが微笑みかける。
「いや、こちらこそ。なかなか段取りをつけられなくて、悪かったと思ってます」
「あたしの方こそ、無理なお願いをしてしまって、あの後少し後悔してたの。だってあなたのスケジュール、びっしり詰まってるんでしょ? あたしのマネージャーがそんなこと言ってたわ」
「他の人と比べようがないから、仕事が多いのかどうかは今ひとつよくわからない、というのが正直なところです。ただ、大学に行く時間を捻出するためには、どうしても仕事を詰め込まなくてはならないみたいです。僕のせいで他の方にも迷惑をかけているので、与えられた仕事はどれも全力投球するのみです」
「まあ! 堂野君って、意外と真面目なのね。見習わなくちゃ」
「いえ、不器用なだけですよ」
「ふふふ。そっか。あなたでも、うまくいかないことってあるんだ。でも、何でも卒なくこなす人より、ジタバタして一生懸命生きてる人の方が、人間臭くて魅力的なのかも。……柊さんも、あなたのそんなところが好きなのかしら」
上半身を遥に傾け、口に手を添えながら、しぐれが小声で言った。
「あ、いえ……」
柊のことに触れられたとたん、遥の顔がくもる。
「あら、ごめんなさい。あたし、余計なこと言ったかしら……」
「あの、大丈夫です、気になさらないでください」
しぐれは何も知らないのだ。
遥は感情をうまくコントロールできない自分にいら立つ。
「そうそう、あのカサブランカ、今まで、どんな方に頂いたものより素敵だわ。あなたが選んで下さったの? 」
遥の変化を目ざとくキャッチしたしぐれは、さりげなく話題を変えるテクニックにもぬかりがない。
壁際のサイドテーブルに載せられた白いカサブランカと真紅の薔薇の花束にうっとりと見入りながら訊ねられる。
遥は牧田が準備した大仰なこの花束を抱えてここのレストランにやってきたのだが、別に何も隠す必要はないだろうと、イタズラっぽい笑みを浮かべながら、しぐれに真実を語り始める。
「マネージャーにこれを持って行くようにと言われて、事務所で渡されました。俺、自慢じゃないけどこういったことに疎くて。でもまあ、しぐれさんが喜んでくれたんなら、俺も嬉しいです」
ついさっきまではぎこちなく、よそゆきの言葉で話していた遥だったが、次第に肩の力が抜けて、リラックスして会話できるようになってきた。
「ええ? マネージャーさんが選んでくれたの? なあーんだ、ちょっと残。堂野君、こんな時はね、たとえ嘘でも、君のために用意したんだよとか言わなきゃ」
「すみません、気が利かなくて」
「って、そんな真剣にならないでよ。ここは笑うところなんだから。ホント、堂野君って、生真面目よね。雄太郎があなたを信頼している理由が、わかるような気がする」
「いや、そんなことは」
「うふふ。あなたのその純粋さがなぜかうらやましいのよね。この世界に長くいると、何が本当で何が嘘かなんて、そのうちどうでもよくなってきて。いい仕事がもらえて、うまくことが進めばそれでオッケーみたいな。時々、虚しくなるのよね……」
「しぐれさん……」
「やだ、堂野君までそんな神妙な顔しないでよ。でもこうやってたまに息抜きするのもいいわね。ここだと個室だし、人目も気にならないもの」
しぐれは身体のラインがはっきりわかる細身のミニ丈のニットワンピースに、膝上まであるブラウンのロングブーツをバランスよく組み合わせて、モデルに引けをとらないほどの完璧なファッションで遥の前に現れたのだ。
たとえ仕組まれた会食だとしても、白昼堂々とデートを楽しむのは生まれて初めてなどと言って無邪気にはしゃいでいるしぐれは、心底この場を楽しんでいるように遥の目に映った。
目の前のしぐれは、鴨のローストをナイフとフォークを使って優雅に口に運ぶ。
彼女のストレートの髪がさらさらと頬にかかり、そのたびに耳にかけるしぐさに、遥の心臓がどきっとはねた。
しぐれに対する恋愛感情は全くないのだが、彼女の洗練された大人の身のこなしにしばし視線が釘付けになる。
ただし、しぐれも遥に対して特別な感情はないのだろう。
お互いの交わる視線が色めき立つことは無く、なごやかに時間が過ぎていく。
しぐれがワイングラスをテーブルにコトリと置いたタイミングで遥は彼女に訊ねた。
「しぐれさん、今日の会食の目的は聞いてる? 」
「ええ、聞いてるわよ。どこかでシャッターチャンスを狙ってる人がいるのでしょ? 」
しぐれは誰もいない部屋の隅々を見渡して、冗談っぽく小声で言った。
「ははは。そのとおり。俺がやらかしたばかりに、しぐれさん、あなたにまで迷惑をかけてしまって……」
写真を撮られた時、柊のことしか見えてなかった自分が情けなくもあったが、決して恥じてはいない。
彼女を愛する気持ちに嘘偽りはないのだから。
柊を守れなかったこと、そして目の前の女優であるしぐれまでも巻き込んでしまったことを悔いていたのだ。