165.扉の向こう側 その2
ほとんど眠ることなく朝を迎え、牧田の車に乗り込んだ遥は、柊と別れたということを口に出して告げた今、それが現実なのだと改めて思い知る。
あまりにも衝撃的な遥の一言に牧田は目を白黒させていた。
「ちょっと待って。それって、一昨日あたしが柊さんに会って、それからってことよね? 」
「そうです。だから……もういいですって。そんなことより早く仕事に行きましょう」
「わ、わかったわ。でもこれだけは言わせて。あたし、柊さんに堂野君と別れて下さいなんて言ってないから。社長があなたに言ったとおりに伝えただけ。彼女も、はい、わかりましたって頷いてた。ただ……」
「ただ? 」
遥は、視線を牧田に向けると、その言葉の次にあるものを探るように訊き返す。
「ただ社長は、本当はあなたと柊さんの関係を認める方向で動いていたの。でもね、同時に事務所の買収の話が持ち上がってて。あなたの所属事務所自体はどこも非はないんだけど、母体の出資会社が経営不振で、事務所を手放そうとしてるの」
「いったい、どういうことですか? 」
まさしく寝耳に水という慣用句が今の遥にぴったりだった。
牧田の話しは、到底、理解しがたい内容だ。
「それで買い手っていうのが、雪見しぐれのいる事務所なのよ。あそこは大手だから、もしそうなったら、ここのモデルにとってはいい話でもあるのよね。モデルは解雇しないって約束で、そのまま業務を引き継いでくれるの。でも……」
「それって、まさか。社員は解雇、とかですか? 」
「ええ、まあ、そんなところ。幸い、あたしは事務所の社員じゃなくて階英出版から出向って立場でしょ? だから、そのままあなたについていけるはずなんだけど、残念ながら、社長と他の上司の人たちは、クビってことになるの……」
牧田があまりにもさらりと衝撃的なことを言うものだから、遥はうっかり聞き流してしまうところだった。
「そうですか……って、ちょっと待ってください。クビって、そんな……。ならば、社長はあの事務所から追い出されるってことですか? 」
「そうよ。社長は、あなたにはまだこのことを言うなって言ってたけど、マスコミにはもう流れてるみたいだし。あなたの耳に入るのも時間の問題だもの」
「もしかして、俺のせいですか? 俺が迷惑かけたから、社長が責任とって追い出されるのですか? 」
牧田はビクッと肩を揺らすと、正面に向き直り、ひとつ大きく息を吐いた。
「そればかりじゃないけど……。あなたをきちんと管理できなかったことで、責任を感じてはいるようね。前の雪見しぐれとの騒動で、向こうの事務所との取り決め事項がいろいろあったみたいで、今回柊さんとの写真を撮られたことは、充分それに反することだったわけ。いくらもみ消したからと言っても、デジタルの世の中だもの、そう簡単に証拠が消えるわけじゃないし……。でもあなたが本当に柊さんと別れたというのなら、社長の首が繋がる可能性が消えたわけじゃないわね」
「……」
遥は何も言葉が出てこなかった。
「あたしは中立的な立場だからどちらか一方に肩入れするわけじゃないけど、あの社長、嫌いじゃないのよ」
「俺だって……。嫌いじゃないです。尊敬しています」
遥は読者モデルを経験してから今までの自分に起こった様々な出来事を思い出していた。
どこにも強制や脅迫めいたものはなく、あくまでも遥の自主性を重んじての結果、今がある。
嫌なら、徹底的に無視して断ればいいだけだ。
学業を優先させるためのスケジュールの調整から、社宅扱いのマンションの斡旋。
どこの事務所よりも明瞭だと言われている財務状況に、充分すぎるほどの報酬の提示。
それらは全て、社長の仕事への取り組みの姿勢が全面的に現れた結果だといっても過言ではない。
モデル一人一人が大切にされていることを如実に物語っている。
そんな社長だからこそ、自分の立場を投げ打ってでも、モデルたちの居場所を守ったのだろう。
自分の浅はかな行動が原因で事務所の存続をも追い詰めていると気付いた遥は、もう迷うことは無かった。
「牧田さん。しぐれさんとの食事の件も、早めに設定をお願いします。俺、もうこれ以上、みんなに迷惑掛けたくありませんから。あっ、でも。これだけは言っておきます。しぐれさんと本気で付き合うっていうのは、ありえませんから。それだけは勘弁して下さい。後はなんだってします」
「もちろんよ。人の心まで作為的に操ることはできないもの。心は自由よ。やっとあなたも本気をだしてくれたわね。じゃあ、これからはもう容赦しないわよ。ビシビシやらせてもらいますからね。……ということは、テレビの仕事が来ても受けるってことでいいのかしら? 」
「……はい。受けます。何でもと言うわけにはいきませんが、ドラマとか以外なら大丈夫です。バラエティー番組なら望むところです」
「まあ、そうなの? 普通は反対なんだけどね。ドラマとか映画の方がいいって子の方が多いのよ。でもそれいいかも。クイズ番組なんかも合ってるかもね。じゃあ、そっちの方向でガンガン攻めていきましょうね」
遥の瞳はどこまでも真っ直ぐで、前だけをみて歩き始めたのだ。
とにかく今は、仕事の事だけを考えよう……と。
そしていつの日か柊の気持ちがほぐれて、遥自身も彼女を愛する気持ちが続く限り、また寄りそっていけばいい。
二人の間がこれしきのことで永遠の終わりを告げるなんてことは、絶対にありえないのだから。
遥は、本日最初の仕事場である撮影スタジオの重い鉄の扉を開けて、気持ちも新たに第一歩をふみ出した。