164.扉の向こう側 その1
「堂野君、昨日はいったいどうしたの? 約束どおり、二時頃に電話したのよ。それなのにあなた、ちっとも出てくれないじゃない。なんか、無視された気分だわ」
「そのときはちょうど講義中で……」
「じゃあ、その後もどうして出てくれなかったの? 何度も電話したのよ。あいた時間にかけ直してくれてもよかったじゃない」
「……すみません」
遥は覇気のない声でぼそっと謝った。
「もう、堂野君ったら。どうしちゃったのかしら。で、用件は? 大体、予想はつくけどね」
翌日の早朝、遥は車の中で牧田に問い詰められていた。
実際、電話に出ることは可能だったが、本田のアドバイスを聞く限り、他に有効な手立てがあるとは思えなくなっていたのだ。
そして、柊との問題をこれ以上仕事に持ち込むべきではないと結論づけた遥にとって、牧田にどう話を切り出せばいいのか迷った結果、無視されたと言われても仕方のない状況になってしまった。
「ああ、そのことなら。もういいです。俺は……」
遥は言いかけて口ごもった。
「何? 柊さんのこと? そうよね。あなたが元気なくすのもわかる。でもずっと会えないってわけでもないし、十二月いっぱいまではなんとか我慢してくれさえ……」
「だからもういいですって! 」
「堂野……君? 」
急に大きな声を出す遥に、牧田は何事かと訊き返す。
「あ、すみません。あの、もうそのことは、いいんです」
「いいって、どうして? 堂野君、なんか変よ」
「牧田さん、前に聞いていたカタログ販売の衣類メーカーの仕事の件ですけど。それ、やってみます。それと大学在籍中の残り二年は、契約延長でお願いします」
遥は牧田の今となっては的外れな話を遮ると、今まで曖昧な返事でごまかしていた仕事について、引き受けるときっぱりと言い切った。
「堂野君……。それ、ほんと? あなたから、そこまで前向きな返事をもらえるなんて、信じられない。いったいどうしたの? なんか気持ち悪いわ。心境の変化ってこと? 柊さんがあなたに諭してくれたのかしら」
「はあ? 彼女は関係ないです」
「関係ないって、そんなことないでしょ? 誰が何と言っても、離れられない二人なのに」
変なこと言わないでよ、と牧田が笑いながら言った。
「別れましたから、もう……」
隠す必要はない。
いらぬ心配をかけるくらいなら、包み隠さずすべて明らかにした方がいい。
「えっ? ちょっと待って。今、なんて? 」
牧田は突如ブレーキをかけて車を路肩に寄せ、後部座席にいる遥の方に振り返った。
「いったい、それ。どういうこと? ちゃんと説明して! 」
「これであなたたちの思い通りになったってことですよ。彼女はもう東京に戻ってきません……。昔の親友を頼って、どこかに匿ってもらってるみたいです」
遥は牧田と目を合わせずに、窓の外に視線を彷徨わせながら淡々と説明した。
昨夜、日付が変わってからようやく篠川夢美と連絡がとれた遥は、柊の消息はなんとか確認できていた。
篠川の短大の友人が一人暮らしをしているマンションに、身を寄せているらしい。
遥は柊と直接話がしたいと掛け合ってみたが、篠川はかたくなにそれを拒んだ。
昔の彼女からは想像もできないほど、強い意志で遥の求めを拒絶したのだ。
もちろん、マンションの場所も絶対に口を割らなかった。
おまけにそこは女性専用マンションだから、敷地内はもちろん、周囲をうろついただけで通報されることもあるという脅し文句までついていた。
柊の実家にはまだ何も言ってないらしい。
ただし、いつまでも隠し続けるわけにはいかないから、近いうちに親にだけ、あらましを伝えると言う。
もう遥には手も足もでない状況であることは理解できる。
けれど、柊をそこまでに追い込んだのは、まぎれもなく遥自身だ。
これを自業自得というのなら、甘んじて受け入れるしかないのだろうか。
とにかく今は時間が欲しい、柊が遥に会いたいというまでは、このままそっとしておいて欲しいと、篠川は一歩も譲らなかった。
『堂野君が仕事とひいらのことで板ばさみになっているのは、とてもよくわかる。ひいらは堂野君が大好きだからこそ、とても苦しんでいるの。堂野君だって、苦しんでるんだよね。でも、どうすることもできない。だからと言って、ひいらは、堂野君が仕事を投げ出して無責任なことをするのは望んでないの。だから辛いの。堂野君を大切に思えば思うほど、ひいらは堂野君から離れなければならないって、そう言ってる。あたしはそんなひいらに寄り添ってあげることしかできないけど。ひいらが苦しみぬいて出した答えがあるなら、それを受け入れて欲しい。だから今はこのままそっとしておいてあげて。堂野君、お願い……』
篠川の電話越しの声が、一夜明けた今も遥の耳元で何度もよみがえる。
篠川との電話のあと、もう午前一時を回っているというのに、遥は彼女の通っている花山短期大学付近まで行ってみようとすぐに車に乗り込んだ。
エンジンをかけ、高速の入り口付近まで走ったところで携帯のメール受信ランプが点灯する。
柊から連絡が来たのかと胸を躍らせたのも束の間、牧田からだとわかったとたん大きく落胆のため息をつく。
明日の朝……もう今日だけど、予定どおり五時に迎えに行きます。
念のため再度メールしておきますね。返信は不要です。と送られてきた。
今から車を走らせても、花山短大まではノンストップで三時間以上はかかる。
おまけに、柊のいるマンションを夜中に探すなど不可能であるのは百も承知だ。
ならば、実家に行けば何かわかるかもしれない、とかすかな期待をよせてみる、が。
篠川の言ったことが正しければ、実家ではまだ何も把握していないようだ。
遥が行けば、実家の両家を巻き込んで騒動を起こすだけで、それは、今はそっとしておいて欲しいと願う柊にとっては不本意なことに他ならない。
あれこれ思いを巡らせたあと、遥は自分の無力さにいらだつばかりで、泣きたくなった。
泣いたところで柊は戻らない。
高速の入り口を右手前方に確認しながら車線変更した遥は、来た道を引き返すことしかできなかった。