163.置手紙 その2
「あ、あのう、失礼ですが。確かあなたは、堂野遥さん、ですよね? 」
「いや、あ……はい。そうです」
遥は身を明かすことをためらいながらも、柊に会いたい一心で、あっさりと認めてしまった。
「やっぱり、そうでしたか。蔵城さんとは、その、どういったご関係で……」
「あの……。蔵城は、僕の身内になります。入院中の祖母のことで、ちょっと伝えたいことがあって……」
遥は咄嗟に思いついた言い訳を店長に告げる。
あれほど事務所から気をつけるようにと釘を刺されていたのに、自分の口から第三者に柊のことを語ってしまった。
幸い遥の後ろに並ぶ客はなく、店の人以外には誰にも気付かれていないようだ。
ところが、店のスタッフが顧客のプライバシー保護の認識に疎ければ、すぐにでも世間にひろまってしまう可能性がある。
ここは、あくまでも彼女とは親戚関係であることを強調しておかなければならない。
「そうですか、蔵城さんとはご親戚でいらっしゃいますか。残念ながらこちらにはもう来ていませんね……」
「わかりました。お忙しいところ、すみませんでした」
遥は気を取り直し、店長に頭を下げた。
「あっ、そうだ。彼女の私物がまだ少し残ってるんですがどうしましょう。靴とタオルなんですが。ご自宅に送ってもいいんですけどね……」
店長はどことなくまだ遥のことを疑っているように見えた。
もし遥の言うことがでたらめで、ストーカーと同類であったなら、彼女の荷物を言付けるのは非常に危険な行為になる。
「荷物は頂いていきます。あ、あの……こちらに採用してもらう時の彼女の保証人は僕の祖父になってます。朝日万葉堂の……。ですから、決してやましくはないんで。何なら彼女の実家に電話をかけてもらって、僕の確認を取ってもらってもいいです」
「あはは。そこまでして頂かなくても大丈夫ですよ。堂野さんのことは、何度か雑誌でも拝見しましたし、ここの若いスタッフにもいろいろ聞いているので存じてますから。それに、確かに蔵城さんのご親戚が和菓子屋さんを営まれていると聞いてました。東京での身元引受人になってもらっていると言ってましたね。そうです、確かに堂野様とお聞きしていました。まさか、朝日万葉堂の堂野様だったとは。ちょっとお待ち下さい。荷物取って来ますね」
遥にだけ聞こえるようにそう言って頭を下げた店長は、足早に店の奥に下がっていった。
入れ替わるようにして、遥の目の前には白い湯気の立ち上るコーヒーが置かれ、料金の精算が始まる。
「蔵城さんの荷物の方、後でテーブルまでお持ちしますので、席でお待ち下さい」
さっきの若いアルバイト店員が恥ずかしそうに頬を染めながら、やっとのこと、それだけ言った。
遥は促されるまま、奥まった席に移動した。
どこか暖かい感じがするこの店は、店長や店員の心がそのまま反映されているのだろうか。
何も聞かなくても、柊がここで大事にされて、のびのびと働けていただろうことは大方予想が付く。
制服を着て、店内をところ狭しと動き回っていた柊が、そこの柱の影からひょっこりと顔を出しそうな気がした。
遥は危うく涙腺が緩みそうになるのを必死でこらえた。
柊の荷物と、少しですがどうぞ、と店長からもらったハンバーガーが数個、遥の手に下げられた紙袋の中に納まっている。
すっかり日の暮れた秋の夜、遥はまだ鳴らない携帯の着信を何度も確認しながら家に向っていた。
大学に入学してから足しげく通ったここは、遥が前に住んでいた学生マンションよりも、あるいは思い入れが深いかもしれない。
遥は柊から預かったままになっている鍵をポケットから取り出しドアを開け、二人の思い出がいっぱい詰まった彼女のアパートに足を踏み入れた。
そこはいつになくシンと静まり返り、時折、向かいのマンションの裏を走る電車の音が、窓ガラスのかすかな振動とともに聞こえる程度で、上階の人の気配すら何も感じられなかった。
電気のスイッチを入れ、室内を見回す。
そこは身震いするくらい整然としていて、どこか覚悟めいた空気が漂っているように感じるのは、気のせいなのか。
遥は台所にある小さいテーブルに、大学の学章が印刷された馴染みのあるレポート用紙が一枚置かれているのに気付いた。
柊の几帳面な字が並んだそれを手にした遥は、そこに書かれている文字を、ひとつひとつ確かめるように目で追った。
堂野遥様へ
今から牧田さんに会いに行きます。
大体の用件は電話で聞きました。
もしわたしがここにもどらなければ、ガス、水道、電気等
止める手配をお願いしてもいいですか?
書類の捺印は、実家に送ってもらえれば
父か母が対応してくれると思います。
最後の最後まで手を煩わせてごめんなさい。
そして家具などの荷物は適当に処分してください。
よろしくお願いします。
柊より
読み終えた遥は、用紙をくしゃくしゃにして握り締め、テーブルに拳を突きつけて、声を上げて泣いた。