162.置手紙 その1
遥はハンバーガーショップに来ていた。
そこは七月まで柊がバイトをしていたところだ。
去年の夏の初め頃だっただろうか。
働き始めたばかりの柊が気になり、一度だけ様子を見に立ち寄ったことがある。
カウンターでてきぱきと注文を取り、笑顔で客とやりとりをしている彼女を見てほっとしたのも束の間。
柊が遥に気付いたとたん、顔が強張り態度がぎこちなくなった。
働いている姿を遥に見られたことがよほど恥ずかしかったのだろう。
明らかに仕事に支障が出るくらいミスを連発したため、それ以来店に行くことはなかった。
夏休みに長期休暇を申請した後、遥の祖母の看病のため、ここのバイトはすでに辞めている。
なのにどうしてそこに向っているのだろう。
柳田に言われたからというのもあるが、今現在、柊が在籍していないバイト先に行っても、解決の糸口は見つからないだろうことは重々承知していた。
とにかく、じっとなんかしていられない。
柊がかかわった場所であれば、時間が許す限り、どんなところでも足を運ぶ覚悟はできていた。
さっきサークルのミーティングルームで言われた本田の助言が、何度も遥の脳内でリピートされる。
普段口数の少ない本田の一言一言が、遥の心にしっかりと刻まれていった。
本田の言い分はこうだった。
「一度彼女と距離を置いてみろ。お互い一人になって考える時間も必要だ。彼女、語学留学でもするつもりか? ならば、したいようにさせてやれよ。彼女の人生なんだから」
もちろん、そのとおりだ。彼女の人生は彼女のもの。
遥が口を挟むことではない。
「そのうちおまえの元に帰って来るさ。おまえだって、彼女のいない辛さをとことん味わってみるのも必要だぞ。なあに、それくらいで死にはしない。人間ってもんは、うまく出来てるんだ。適応能力ってヤツがあるんだよ。だから、今無理やり全てを投げ打って、彼女を追いかけてみても、得るものは何もない。次に二人の間が壊れた時は、取り返しのつかないことになるぞ」
本田は遥の気性も柊の性格も、すべてわかった上でそのように言ったのだ。
遥も本田の言いたいことは理解できる。
一度離れて冷静になって、それぞれの世界をしっかり充実させろ。
それからでも遅くないと言っているのだ。
でも、素直にはいそうします、と言えないのだ。
嫌いになったわけでもないのに、彼女と別れるなんてことは、できそうになかったからだ。
このまま音信不通になって、もし柊がこれから先、二度と自分のところに戻ってこなかったらどうすればいい?
もう一度やり直せる保障などどこにもない。
今、行動に移さなかったことを近い将来悔やむことにはならないか。
今ならまだ間に合う。
何としてでも柊を探し出して、自分のもとに引き止めるんだ、などと思う部分が、むくむくと増殖し始める。
しかし、気持ちに素直に動けば、事務所に多大な迷惑をかけてしまう。
応援してくれているファンの人たちをも裏切ることになる。
やはり本田の言うとおり、ここは柊の気持ちを尊重すべきなのだろうか。
遥はいまだ答えを見出せないまま店のカウンターに並び、売上一番だという特製ハンバーガーとポテト、ドリンクのセットを注文した。
遥の番になったとたん挙動不審になった目の前の学生アルバイトが、あろうことか注文を聞き間違え、飲み物を取り替えるため、あたふたと厨房に戻っていった。
モデルの堂野遥だと気付いたのかもしれない。
雪見しぐれとの交際報道が広まってから、こういう場面に出くわすことが多くなった。
遥はキャップを深めにかぶり直し、視線を下に落としたまま待った。
「あのう、お客さま。大変申し訳ございませんでした。コーヒーの方、すぐにご用意いたしますので、少々お待ち下さいませ」
すぐに若い男性スタッフらしき人物が現れ、丁寧な物腰で遥に応対する。
遥は顔を上げて、その人と目を合わせた。
胸には店長と書き添えられたネーム札がついていた。
「あの、すみません、ちょっとお訊ねしたいことがあるのですが」
遥は自分で話しかけておきながら、その行動にびっくりしていた。
いったいこの店長に、何を訊ねるつもりなのかと。
「はい、どういったご用件でしょうか? 」
店長も急に話しかけられて驚いたのだろう。
目を丸くして、彼よりやや高い位置にある遥の顔を不思議そうに見ていた。
「蔵城は、最近こちらに顔を出してないでしょうか? 昨日とか、今日、こちらに伺いませんでしたか? 」
店長は明らかに困ったような顔をして口ごもる。
「く、蔵城さん、ですか? うーん、彼女はここを辞めてからは、一度も来てませんね」
「そうですか。来てませんか……」
ここでは柊の足取りはつかめないだろうとわかっていたはずなのに、こうもきっぱりと否定されると身体中の力がすべて抜け落ちていくような無力感に襲われる。
どんなに小さなことでもいいから、彼女の足取りに関する情報が欲しかった。
「あ、あのう、失礼ですが。確かあなたは、堂野遥さん、ですよね? 」
「いや、あ……はい。そうです」
遥は身を明かすことをためらいながらも、柊に会いたい一心で、あっさりと認めてしまった。