161.友と先輩と その2
いったい何人いるのだろうか。
大講義室は、学生達で溢れかえっていた。
学部内でも人気の国際政治学のこの講義は、教授が手元のノートパソコンを操作してスクリーンに映し出す授業形態になっている。
すぐ隣に設置してあるホワイトボードにも、英語と日本語が入り混じった説明がカラフルなペンで書き込まれ、息をつく間もないほどスピーディーに講義が展開されるのだ。
そして間髪入れずに学籍番号で指名され、難題を問われる。
学生もうかうかしていられない。
これほど眠るのに適していない講義はないだろう。
そんな緊張感の漂う講義にもかかわらずこれだけの学生を集めるのは、ひとえに教授のユニークな人柄と実績の素晴らしさにあるのは間違いないが、それともうひとつ……。
遥がいるからだ。
遥自身はつい最近まで、自分のせいでこのような状況になっているなどみじんも思っていなかったが、今となっては講義に出席すること事態が何か悪いことをしているような気になり、なるべく目立たないように行動するよう心がけているつもりだ。
大講義室の中ほどで立ち止まり、辺りを見回した。
すると右手最前列で手を上げてこっちこっちと招いてくれる馴染みの人が視野に飛び込む。
遥は人を掻き分けるようにしてその人の元に近寄って行った。
「よおっ! 堂野。先週以来だな。仕事、相変わらず忙しいのか? 」
「ええ、まあ……。それより先輩、いつも席取ってくれて、ホントありがたいです。すみません」
「別に気にするな。こうでもしないと、あとが大変だろ? おまえが先にここに座っててみろ。どー考えても、講義よりおまえ目当てな女たちが、そこかしこに陣取って大騒ぎになるに決まってるからな。まあ、おまえのお蔭で俺たちみたいなむさくるしい野郎まで、きれいどころをいっぱい拝めるって利点つきで、ありがたいっちゃーありがたいんだけど……」
女優の伊藤小百合の息子である本田雄太郎は、半ばもみくちゃにされながらようやくここまでたどり着いた遥を座ったまま見上げておどけてみせる。
一年先輩の本田は、去年あまりにも大学に顔を出さなかったため、二回生の遥と肩を並べて同じ講義を受けるはめになっていたのだ。
そして事あるごとに、遥に救いの手を差し伸べる。
本田先輩こそ有名女優の息子で知名度も高いはずなのに、マスコミへの露出が少ないためか、はたまた名前が親の芸名とかけ離れているためか、あるいは飾らない性格とごくごく平凡な顔立ちのせいか……。
とにかく学生達は見事に無反応で、そのお蔭で先輩は自由気ままにふるまえるのだ。
それはもう、遥もうらやむほどに奔放な毎日を送っている。
遥はといえば、学内では顔を隠す必要もないだろうと無防備な姿で歩き回った結果、あの週刊誌報道以来、学生の間でかなり話題の人物になっているのだ。
あれが、雪見しぐれの彼氏だよ、と。
携帯での隠し撮りに至ってはもう日常茶飯で、注意するのもバカバカしく思えるこの頃だったりする。
雪見しぐれのサインをもらってきて欲しいと真顔で頼まれた時には、その礼儀知らずなどこの誰とも知らない男子学生を思いっきり殴りたい衝動に駆られ、気持ちを押さえ込むのに苦労した、なんてこともつい先日の出来事として封印してある。
「なあ、堂野。最近おまえのニセ彼女がうるさいんだ」
本田がさも困ってますという態度で、隣に座っている遥にだけ聞こえるように小声でそんな事を言う。
ニセ彼女とは、つまり、本田のいとこである雪見しぐれのことだ。
前の交際宣言の裏事情もすべて知っている本田は、しぐれの固有名詞を極力公衆の面前で出さないように遥に気遣っているらしいのだが、ニセ彼女という表現の方が、よっぽど周囲に聞こえた時にまずいんじゃないかと、正直ハラハラしていた。
動揺する遥をおもしろがるように、本田は尚もそこだけを強調して話を続ける。
「この前のニセ彼女の映画完成披露パーティーの時、遅れてきた二枚目がいただろう? いつになったら、おまえがそいつを紹介してくれるんだろうって、そればっかり言ってるぞ。ニセ彼女と言っても、一応は世間では認められた仲なんだから、たまにはあいつのために一肌脱いでやれば? その方がおまえも都合がいいだろ? 違うのか? 」
そう言えば、大河内を紹介してくれとしぐれに頼まれていたのを思い出す。
遥は仕事が忙しいのをいいことに、大河内にまだ連絡を取っていなかった。
でも、今の遥はそれどころではない。
本田の問いかけにあいまいに頷きながら、ポケットの中の携帯を取り出し、着信を何度も確認する。
「おい、堂野。聞いてるのか? 」
いつもと違って、そわそわと落ち着きの無い遥の様子に、本田もいら立っているのだろう。
「す、すみません。聞いてます。大河内のことですよね。それはまた今度……。あの、先輩」
「なんだ? 言いたいことがあるんなら言ってみろよ」
「この講義の後、話があるんですけど。時間ありますか? 」
「ああ、別にいいけど。……何かあったのか? 」
本田は手で口元を隠すようにして遥に訊く。
「……はい」
遥は本田の目をしっかりと見て、重々しく返事をした。
本田も異変を感じ取ったのだろう。
よしわかった、と言ったきりそれ以上遥に話しかけることはなかった。
いつもより長く感じた講義が終わった後、演劇サークルのミーティングルームに本田と共に向かった。
そこで遥は、今朝送られてきた柊からのメールや、それに付随する仕事のことをあらいざらいぶちまけたのだ。