157.取引条件 その2
ところが、彼女を愛することがこんなにも世の中を騒がせることになるなんて、誰が想像できただろう。
柊を苦しめることだけは何があっても避けたい。
「でも彼女が、世間にそんな風に晒されるのは心外です。これ以上あいつを俺のせいで振り回したくない……」
「ふむ、そうだな。男としては当然そのように思うだろうな。じゃあ、無理を承知で言わせてもらうが、その一般人の彼女とは別れることは出来ないのかな? これからも彼女を苦しめることがいろいろ起こると思うんだが……」
社長のやや婉曲気味なその問いが遥の心に重く響く。
「出来ません……」
遥は膝の上にある拳を強く握り締め、湧き上がってくる怒りを呑み込んで、できる限り感情を抑えて答える。
いくらそれが社長の希望であったとしても、柊と別れることだけは出来ない。
「そうか……。わかった。では取りあえず、今私が提案した方向でこの場を切り抜けてくれるか? そうすればこの写真が外部に漏れることだけは避けられる。君の彼女にもこれ以上迷惑がかからないように出来るだけのことはするつもりだから、堂野も軽はずみな行動はくれぐれも慎むように」
「はい。わかりました」
「それと……。おばあさん、大変だったらしいな。手術が成功したそうで良かった」
「ありがとうございます」
「いやね、私の母も五年前に脳梗塞で倒れて、仕事が終わって駆けつけたら、残念ながらもう間に合わなかった、ってことがあったんだよ。悔やんでも悔やみきれない。時間をもどすことはできないからね。まあこういうことは遠慮せずにすぐに言いなさい」
「はい。ご配慮に感謝いたします」
遥は頭を下げることしかできない。
「さあ、話はこれで終わりだ。これからも君には期待してるよ。がんばってくれ」
そう言って立ち上がった社長は、すれ違いざまに遥の肩に手を載せ、頼むよと念を押すように軽く揺すぶった。
そして、こんな事態であっても背筋を伸ばし、颯爽とした足取りで社長室を出て行く。
この世界で長年生きてきた人間の底力を見たような気がした。
このあとも誰かと会うのだろうか。
自分の浅はかな行動で迷惑をかけてしまったことに胸が痛んだ。
遥は社長の姿が見えなくなった今も、まだ深く頭を下げたままだった。
「堂野君。もう顔を上げて」
遥と一緒に頭を下げていた牧田が遥の耳元で言った。
「牧田さん……。本当に、すみませんでした」
「もう、いいのよ。私だってあなたと同罪。あなたが柊さんと一緒だったってこと、普通に考えれば予測できたのにね。もし部屋に彼女がいるなら、別々に出てきてって、ひとことあなたに電話すればよかった……。新幹線の中くらいなら言い訳もできたかもしれないけど、マンションから二人そろって出てくるのは、完全にアウトだものね」
「はい……」
「辛いかもしれないけど、とにかく二ヶ月間は彼女と会わないで。我慢してちょうだいね。それと、社長はあれ以上は言わなかったけど、あなたと同じくらい柊さんもマークされてるみたいなの。明日も仕事のスケジュールが詰まってるから、彼女には、あたしから直接このことを知らせようと思うけど、それでいいかしら? 」
「いや、それは自分で柊に。あ……。携帯は、使ったらダメなんですよね? 」
「そうね。万が一の時のために、携帯は使わない方がいいわ。それに事務所の電話も、私用はちょっと……」
「じゃあ、彼女には牧田さんから連絡をお願いします。何から何まですみません。俺の方からは、明日の夜にでも公衆電話から彼女に連絡いれます」
本当は自分が直接行って柊に話したかった。
けれど牧田が言ったとおり、分刻みの仕事がびっしりと組まれている中、彼女との時間を持つなど不可能だ。
「じゃあ、そろそろスタジオに戻りましょう。他の皆にはこのことを悟られないようにしなくちゃね。だからあなたもさっと気持ちを入れ替えて。あと少し、頑張りましょう。きっと佐山君の機嫌も直ってる頃よ」
牧田の笑顔に元気をもらった遥は、今は仕事のことだけを考えようと自分を奮い立たせてスタジオに向かった。
翌日、深夜に帰宅した遥は、マンション近くにある公衆電話で柊の携帯に連絡を取ろうと試みるのだが……。
何度掛けても繋がらなかった。
電源が切られている可能性があります、とお決まりの応答が流れるばかりだった。
遥は社長と牧田と交わした約束と葛藤しながらも、どうしても我慢できずに携帯で連絡を取ってしまった。
しかし公衆電話と同じで彼女の声を聞くことはできなかった。
彼女の携帯に何かトラブルでもあったのかもしれない。
だが、牧田からも彼女に連絡がいっているはずだから、何も心配ないと自分に言い聞かせる。
律儀な柊は牧田の話を真面目に受け取り、携帯の電源を切っているのかもしれない。
何かあれば、彼女の方から公衆電話でも何でも使って連絡をくれるはずだ。
繋がらない電話はどうすることもできない。
遥は気持ちを切り替え、自宅に戻った。
明日は久しぶりに大学に行く予定だ。
大学の公衆電話から電話をかけることもできる。
睡眠不足の身体は、ベッドに倒れこむと同時に夢の中に引きずり込まれる。
携帯を握り締めたまま、いつしか遥は深い眠りについていた。