156.取引条件 その1
事務所に戻り、社長室に通された遥と牧田は、ソファに座るや否や、大きめの封筒を渡され中を確認するよう言われた。
中からはメモリースティックと共に、印刷された写真が数十枚出てきた。
一見、普通のスナップ写真のようにも見えるが、明らかにそこに写っているのは遥と柊の二人以外の誰でもなく、言い逃れの余地はなかった。
新幹線で寄り添う様子はもちろん、マンションに帰る姿から翌朝車に乗る瞬間までのショットが完全に本人とわかる形で撮られていた。
「これは……」
新幹線の隣の座席にいたあの男が記者だったのだろうか。
遥は同じ駅から乗り込んだ、一見サラリーマン風のビールを飲む男の姿が脳裏に蘇る。
たまにその男と視線が絡み合うこともあった。
どこをどう見ても一般人としか思えないその人物が、そんな工作をしていたのだと思うと、急に胃がきりきりと痛み始めた。
周囲からはそれとは気付かれないくらい小さな特殊カメラもあると聞く。
旅の土産だと思っていた男の持っていた紙袋も、偽装のための小道具だったのかもしれない。
「……と、まあ、そう言うわけだ。牧田君にも常々用心するように言ってたんだがね」
「社長、申し訳ありません」
牧田が緊張した表情のまま深々と頭を下げた。
「いや、起こってしまったことは仕方ない。で、堂野。君の意見も聞いておこう。これは、その……。事実で間違いないのかい? 」
遥の父親より少し年上だろうか。
過去にタレントの経験もあるという、整った顔立ちをした一見温厚そうな社長が、少し顔を強張らせながら遥に訊ねた。
「……はい。間違いありません」
遥は俯き、力なく答えた。
「そうか。本当だったか……。いや、別にこれくらいのことは、よくあることだから。特に心配はしてないんだが。ただ、雪見さんの事務所とうちは、先日申し合わせをしたところだからね」
「はい……」
「少し厄介だが。まあ、大丈夫だろう。君がそんなに落ち込む必要はないよ。いくら君がモデルで、マスコミに知られている存在だとしてもだ。誰がなんと言おうと、これはプライバシーの侵害に他ならない悪事だからな」
「プライバシーの侵害……ですか? 」
「そうだ。だから、これを撮った相手を訴えることも可能だよ。ただね、君もわかっていると思うけど、建前上は雪見さんが君のお相手ということになっているからね。この写真と記事が世に出ると君や雪見さんのファンまでも裏切ってしまうことになる……」
「そうですね。すみません。私が浅はかでした……」
こうなるとわかっていたら……。
今さら何を思っても、もう遅い。
「堂野、牧田君から君とこの写真の彼女のことはそれとなく聞いてはいるのだよ。結婚の約束までしてるんだってね。ただ、先日あの騒動があったばかりだから、これをこのままマスコミに流されるわけにはいかない。どうだろう、ひとつ提案があるんだが」
社長は声を荒げるわけでもなく、落ち着いて話を続ける。
ただしその目は決して譲歩を見せるものではなかった。
「期限を切ろうと思う。年内、つまり今年の十二月三十一日まで。二ヶ月と少し、写真の彼女と会わないでいられるかね? 」
「彼女と、会えない……と? 」
「そうだ。たった二ヶ月だよ。固定電話からなら連絡を取り合ってもいい。携帯は紛失や盗難の危険があるから、彼女との連絡には使用を控えて欲しいんだが。それともうひとつ」
「もうひとつ? なんでしょうか」
「近いうちに、雪見さんと青山あたりで食事でもしてくれ」
「食事……ですか? 」
「そうだ」
遥は社長の真意が理解できなかった。
しばらく柊と会えないのは仕方ないとしても、どうして雪見しぐれと食事をする必要があるのだろう。
実体の無い交際宣言は無効だとでも言うのだろうか。
それとも、堂野遥の彼女は雪見しぐれだと再アピールするためなのか。
このタイミングでどうしてこのような行動を課せられるのか、社長の思惑が全く掴めない遥は、探るような眼差しで、尚も社長と向き合った。
「この写真を撮った記者と取引をしたんだ。元々この記者の出入りする出版社は、うちの事務所とも繋がりがあってね。記者が他へこの写真を売り込む前に手を打とうと思っている」
「取引……。しぐれさんとの食事が、取引に関係しているのでしょうか? 」
「そうだ。こちらから君達の食事の場所と時間を記者にリークして、取材のチャンスを与えるんだ」
「リーク……ですか」
「そうだ。その記者が言うには、君が和菓子屋のポスターで一躍脚光を浴びた時からマークしている同業者がいて、過去の君たちの同棲の事実も掴んでいると言うんだよ。もしこの写真が世間に出ることがあれば次々に君と彼女のゴシップ記事が誌面を賑わせることになる。嫁入り前の娘さんである彼女もさすがにそれは困るだろ? 」
「はい。もちろん、彼女を巻き込みたくはありません」
「で、君が彼女と同棲していた、ということなんだが……。それは本当なのかね? 」
そんなプライベートなことまで、全く知らない他人に知られているという事実に驚愕する。
しかし事実は覆せない。
「ほ、本当です。一緒に……住んでました。親も知っていることなので、今更隠したり取り繕うつもりもありません」
「まあ君ほどの男であれば、そんな話があっても不思議はないが……」
自分がどんな男であるかなど、どうでもよかった。
ただ柊を愛している、それだけだった。