153.胸騒ぎ その2
「堂野君、行くわよ」
「ああ、お願いします……」
こんなところで時間を取るわけにはいかない。
柊をそこに一人残しておくことに不安を覚えながらも、仕事がある以上どうすることもできないのだ。
牧田が自動スライドドアを運転席で操作して閉める。
その瞬間、窓の向こうにいる柊と無理やり引き裂かれたような痛みを伴う感覚に陥った。
ドアが鋼鉄の要塞のようにも見える。
それでも尚、柊は降りた位置から一歩も動かずに、同じ体勢のまま遥を見送っていた。
直進する道をかなり進んだ後も、小さくなった彼女の姿がまだそこにあるのがわかる。
そして二つ目の信号を左折したところで、ついに彼女の姿が視界から消えた。
「堂野君、思い切りはついた? 」
「はい。大丈夫です……」
「そんな人生の終わりみたいな顔をしないで。元気出して。でもね、さっきは生きた心地がしなかったわ。今後は今朝みたいに二人でそろって出てくるなんてこと、絶対にないようにしてね。それと……。今回ばかりはあたしも反省してるの。結果的にあなたたちを無理やり引き離すような形になってしまったじゃない? 柊さんに、あなたと会わないでって言ったのは本当よ」
「やっぱり……」
塾から急な呼び出しがあって、会えなくなった。ごめんね……と柊からメールがあったあの出来事だ。
東京に来てくれるはずだった柊がそんな簡単なメールひとつで会えなくなったと言ってきた。
どこかおかしいと思っていた。
やはり牧田が彼女に会うなと言ったのだ。
「でもね、堂野君。これからずっと会わないでって意味じゃなくて、しばらくほとぼりが冷めるまで、離れていて欲しいってことだったの……」
「柊の様子も、牧田さんの態度も。なんかおかしいと思ってたんですよ。でも俺だって今の状況はわかっているつもりです。もうムチャはやりませんから。安心してください。ただ……」
「ただ? なんなの? 」
「彼女とは……。毎日は無理でも、週に一度だけでもいいんで会いたいんです。絶対に誰にもバレないように細心の注意を払いますから。お願いします。でないと、俺……」
牧田はフンと鼻を鳴らすと、やれやれと言うように肩をすくめハンドルをポンとたたく。
そして「彼女と会わないと、病気になるとでも? 」 と言ってからかうのだ。
「いや、そんなことは……」
たった今、口にしたことが急に恥ずかしくなる。
どの口が彼女に会いたいなどと、女々しいことを言ったのだろう。
顔がかっかと熱くなるのがわかった。
「最近のあなたは、ほんと、どうかしてたわよね。まさかここまで重症な恋わずらいだとは思わないから、単なるスランプかな、なんてのん気に構えてたんだけど。それにおばあ様のことも何も言わないんだもの。もっと早く言ってくれてたら、すぐにでも実家に帰れるよう取り計らったのに」
「でも、そんな身勝手なことは……」
「何言ってるのよ。身内のそういったことは何も遠慮することはないのよ。そりゃあ昔は厳しいことを言う人もいたけど、今は兄弟も少ないんだし、家族が困っている時は助け合わないと。その辺はあたしも全面的にあなたを支えるつもりだから、悩んでないでなんでも相談してね」
遥は祖母の具合が悪くなり緊急手術だと聞いていても、なかなか言い出せなかった。
自分のために最善のスケジュールを組んでくれたスタッフへの気兼ねもあって、簡単に撮影をキャンセルするなど言えるわけがなかったのだ。
なるべく私事を挟み込まないように、仕事に打ち込むことだけを考えていたつもりだったのだが、次々と露呈される失敗に、ついに牧田も堪忍袋の緒が切れたのだろう。
何かあったの? 隠さないで言ってと問いたださされた。
そこで初めて、祖母の件が明るみにでたというわけだ。
恋人に会えないだけでなく、遥の一番の理解者である祖母の緊急事態にも立ち会えず、このまま一生祖母の生きた姿を見ることも叶わなくなるのではと最悪のシナリオも脳裏をかすめる中、気付けばスタッフの怒号が飛ぶといった日々で、誰の目から見ても遥の様子は尋常ではなかったのだろう。
「牧田さん。ありがとう……ございます」
「いいのよ。これからは何でも言ってね。さあ、気持ちを入れ替えて、今日も仕事頑張りましょう」
牧田に朝一番のエールをもらっても、なぜか遥は気分が晴れないままだった。
今朝の夢のせいだろうか。それとも柊の寂しそうな目のせい?
彼女を車から降ろすべきではなかったのではないだろうかなどと、後悔の念が押し寄せる。
次々と湧き上がる得体の知れない不安な気持ちに胸騒ぎを覚えながらも、明日また柊に会えるんだと無理やり自分に言い聞かせてみた。
彼女がどこかに行ってしまうことなどあるわけがない。
そもそも、遥自身が柊を離すことなど、あり得ないのだから。
車は羽田に向かう。
柊の姿をしっかりと瞼の裏に焼き付けたまま、遥は北の大地へと飛び立った。




