152.胸騒ぎ その1
「ねえ、遥……」
玄関で腰を屈め靴をはいていると、すでに靴を履き終えてそばで立っている柊がつぶやくように言った。
「なんだ? 」
「一緒にマンションを出るのって、その、まずいんじゃ……」
誰かに聞かれないようにと気遣っているのだろうか。
彼女の声が次第に消えるように小さくなる。
「何言ってるんだよ。ここはオートロックだし、住民以外は中に入れない。それに牧田さんはエントランスのすぐ近くまで車を寄せてくれるんだ。何も心配いらないよ……」
柊につられて、遥までひそひそ声になる。
「でも……」
「ほんっとにおまえって、心配症だな。まだここに越してきたばかりだし、記者だってそこまで追ってこないよ。さあ、行くぞ」
遥はしぶる柊の腕を無理やりつかんでマンションの共用廊下に出た。
幸いこの廊下はマンションの中庭に面しているので、外からは見えない。
一応辺りを眺め回してみたが、不審な人物は見当らなかった。
「な? 大丈夫だろ? 」
鍵を閉めながら、まだ不安そうな目をしている柊に言い聞かせる。
「う、うん……」
やっと納得したのか、柊は遥の少し後ろをうつむき加減で歩き始めた。
エレベーターを降り、マンションのエントランスを抜けて通りに面した道路に出たとたん、牧田が乗っているいつもの白いワゴン車が短くも鋭敏にクラクションを鳴らした。
車の窓から彼女が首を出し、血相を変えて早くこっちへと遥と柊を手招きし呼び寄せる。
遥は、おろおろしている柊の手を引いて車のところまで走って行った。
早く! という牧田の叱責にも似た叫び声にますます身体を強張らせる柊を、スライド式の自動ドアが空いた二列目のシートに押すようにして乗り込ませた。
ドアがピピピッという電子音とともに閉まったのを確認すると、運転席から後ろ向きに身を乗り出した牧田が見たこともないような怒りの形相で声を荒げた。
「堂野君、いい加減にして! いったい何考えてるの? おばあさまのお見舞いだって言うから、社長にも掛け合って休みをもらったっていうのに。彼女連れでのこのこマンションから出てくるなんて、いったいどういうこと? エントランスのドアの横の駐輪場に人がいたのよ。路上にも不審な車が何台か止まってるわ。記者だったらどうするのよ。わたしだって彼らの顔を全部覚えてるわけじゃないんだから、もし撮られてたら大変なことになるわよ」
「すみません……」
遥は顔を強張らせたまま視線を下に落とし謝った。
「マンションから出るときは、時差をつけてバラバラに出る。これは常識中の常識でしょ? あなたならそんなこといちいち言われなくてもわかってると思ってた。二人並んで、それも朝よ、朝! 堂々と人前に出てくるなんて、どうぞ撮って下さいってお願いしてるようなものだわ。もうほんっとに気をつけてね」
「はい……。本当にすみません」
牧田の言うことはもっともだ。返す言葉もない。
「ふぅー。まぁいいわ。私も少し言い過ぎたわね」
「そんなこと、ないです。当然です」
「わかってくれればいいのよ。で、あなたたち。二人で会うのって、久しぶりなんでしょ? 堂野君もハタチになったんだし、あんまり細かいこと、とやかく言いたくないんだけどね。これだけはお願い。常に気を抜かないで。蔵城さんも……頼んだわよ」
「す、すみませんでした。わたし、あの、その……」
隣に座る柊を覗き見れば、色味を失った顔をして、しどろもどろになりながら牧田に詫びていた。
「そんなに落ち込まないで。もういいのよ、蔵城さん」
「本当に、すみませんでした。わたしがちゃんと自分のアパートに帰っていれば、こんなことにならなかったのに……」
「だから、謝るのはもういいから。顔を上げてちょうだい。でもさ、ほんと仲がいいのね、あなたたち。なんだか私がとっても悪いことしてる気分になっちゃう。ああ、因果な仕事ね。こんな若くて罪の無い人たちを、大人の醜い世界に巻き込んでしまうんだもの」
確かに牧田の言うとおり、二人のとった行動はあまりにも稚拙すぎた。
昨夜、柊がアパートに帰ると言ったのを引き止めたのも遥だ。
しかし、彼女を引きとめる手を離せば、もう二度と自分の腕の中に戻ってこないような不安に駆られていたのも事実だ。
一瞬たりとも、彼女から目を離せない自分がいた。
冷静になって窓から周囲を見渡してみると、牧田の言うとおり、普段見慣れない車がマンションの周りに停まっているのが目に入る。
どうして柊の言うとおりにしなかったのだろう。
彼女は、あんなにも心配してくれていたのに。
遥は今のこの失態を誰にも見られていないことをただただ祈るばかりだった。
もうこの話は終わりね、とスパッと話題を切り替えた牧田は、淡々と今日の仕事のスケジュールを遥に告げた。
飛行機で北海道に飛び、季節を先取りするべく初雪のたよりを追いかけて、撮影に臨む。
そのあと日帰りで東京に戻り、スタジオで新春の装い特集の撮影に入る、というものだった。
遥は分刻みでこなさなければならない膨大な仕事量に唖然としながらも、それもこれも大学との両立のため仕方ないことと割り切って、牧田の説明を一つ一つ頭に刻み込んだ。
先に柊のアパートの近くまで車を回してもらい、大通りに面したコンビニ前で彼女を降ろした。
「じゃあな、柊。また連絡するから」
「うん。遥も気をつけて。バターロールのお弁当、食べてね」
「わかった。ありがとう」
「風邪、ひかないでね。仕事頑張って」
「ああ。じゃあ……」
「あ、あの、それと」
「なに? 」
「あ……。ううん、いいの。遥、時間取らせてごめんね。仕事に遅れたら大変だし。じゃあまた。牧田さん、ありがとうございました」
柊はまだ何か言いたそうにしていたが、ふいに口をつぐんだ。
そして運転席の牧田に深々と頭を下げる。
エンジ色のストールを肩にかけなおし歩道の脇に立った柊は、ワンピースの裾を風に揺らせながら、なおもじっとこちらを見ていた。
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