151.霧の森 その2
「遥、バターロールは? スクランブルエッグもあるのに……」
シンクに乱暴に放り込まれた空の牛乳パックをあきれたように眺めながら、柊が言った。
遥は、「メシはいらねー」と彼女に目も合わせずに答え、素早く仕事用の服に着替える。
洗面所の鏡に向かいながら、手のひらににワックスをなじませ髪に撫で付けた。
これでセットは完了だ。
「柊、何もたもたしてんだよ。行くぞ」
朝は一分たりとも無駄にできない。
どうせ仕事現場で、頭のてっぺんから足の先まで他人に手を入れられるのだ。
めかしこんでも仕方ない。道を歩ける程度で充分だ。
「おい、柊。聞いてんのか? 」
「あっ、うん。ご、ごめん。遥の支度があまりにも早いから、びっくりして。そうだ、わたしまだ何もできてないよ。ちょっと待って」
そう言って懇願するような目を向けた柊は、あわててスクランブルエッグをバターロールにはさんでラップでくるみ、紙袋に入れた。
「お弁当だよ、車の中で食べてね」 と言って強引に渡された。
そして、もうちょっとだけ待ってと言いながら洗面所に向かい、髪にブラシをあて始める。
おっせーなあ、と文句を言いながらも、洗面所に立つ彼女の後姿から片時も視線を外せないでいた。
鏡に映る柊の瞳が遥の視線と重なった瞬間、彼女はブラシを持つ手を止め、申し訳なさそうな目をしてこちらを見ていた。
「遥、ごめんね。すぐに終わるから。あと少し待って……」
柊の言葉を最後まで待たずに、彼女を背中から自分の胸の中に抱きしめていた。
いったいどうしてしまったのか。
遥は自分の取った行動にびっくりしていた。
夢の中で叶わなかったことを心ゆくまで堪能したかったのだろうか。
けれど、今の遥には時間が無い。
仕事の開始時刻がそこまで迫って来ているからだ。
肩に手を添え、急いで柊をこちらに向き直らせた。
思いっきり限界まで見開かれた柊の色素の薄い瞳に吸い込まれるようにして、そっと唇を重ねた。
それは永遠とも思えるくらい何度も角度を変えて繰り返され、朝だというのも忘れそうになるほどどんどん深くなっていく。
彼女も嫌がってはいない。
目をつぶり、遥に応えてくれる。
これから毎日でも会えるのに、なぜか目の前の彼女を離したくなかった。
このまま自分の手元に引き止めておきたかった。
さっきの夢が現実になるかもしれない。そんな不吉な予感が遥を駆り立てるのだ。
一瞬でも抱きしめているその手を緩めてしまえば、自分の元から飛び立ってしまい、もう二度と戻ってこないのではないだろうかと不安になる。
やっとの思いで柊の唇に別れを告げると、彼女もまたすがりつくような目をしてしがみついてくる。
なんてかわいいんだろう。
頬に耳たぶに首筋に。もう一度唇を滑らせ、やっとのこと彼女から離れた。
「柊、そろそろ行こうか」
「うん」
頬を染めた柊が恥ずかしそうに俯いた。
「今夜は帰れそうにないけど、明日はどんなに遅くなっても、柊のアパートに行くよ。だから待ってて」
「遥。それは、ダメ……だよ」
突如顔を上げた柊が、上ずった声で言った。
「牧田さんに言われたでしょ? いつどこで、誰に見られてるかわからないって。だから、うちに来たら、ダメだって……」
「わかってる。わかってるけど、無理だよ。無理なんだよ」
「はるか……」
「じゃあ、柊がここに来てくれ。それならいいだろ? 」
「わたしが? 」
「そうだ。それもダメなのか? 」
「ううん、そんなことは、ない……と思う。多分、大丈夫。それじゃあ遥、明日仕事が終わったらわたしに連絡して。なるべく目立たないようにして、マンションに入るから」
「絶対だぞ。必ず来るんだぞ! 」
どうしたというのだろう。
柊の言うことが信じられないわけではないのだが、彼女が来ないような気がして、何度も念を押してしまう。
「遥、なんか変だよ。絶対ここに来るから。だから、わたしを信じて……」
遥の心の中までじっと覗き込むような柊の真っ直ぐな目が、信じてと訴えかける。
ようやく納得した遥は、柊を揺すぶっていた腕の力を緩め、ふっと笑みを浮かべた。