147.振り子のように その1
真木夫妻が日本に帰国して以来初めての週末を迎えていた。
大河内がとびきりの笑顔を貼り付けて、ワインを片手にわたしの所にやって来た。
まだエプロンをつけたままなのに。
いらっしゃいも言い終わらないうちに、予定より早く着いた彼にそのまま玄関ホールで抱きしめられた。
「わたしも、会いたかった……。あ、あの、エプロン、はずさなきゃ」
驚きと恥ずかしさとで、すぐ近くにある彼の顔を見上げることすらままならない。
彼の腕の中でごそごそと身体を動かすのが精一杯だった。
「ああ、ごめん、ごめん。君の姿を見たら、つい……。柊のエプロン姿もとてもかわいいよ」
「ありがとう、大河内君」
やっと彼から解放されると、大急ぎでエプロンをはずした。
いくらかわいいと言われてもエプロンのままはやっぱり恥ずかしい。
「真木部長に頼まれたんだ……。留守中、柊をよろしくって」
大河内の手がわたしの背中に添えられ、二人で並ぶようにしてリビングに向かって歩いて行く。
「そうだったんだ。わたしを一人ここに残していくのが心配だったのかな。いったいわたしのこと、いくつだと思ってるんだろう。もう子どもじゃないのにね」
「クリスマスに招かれた時、ここで僕にすがりついた柊は、本当に幼い子どものようだった……けど? 」
大河内がいたずらっぽい目で横にいるわたしを見た。
「そ、それは……。あの時はただ、本当にびっくりして。何も考えられなくなって。だって大河内君がいるんだよ? ここは外国の地で、知り合いなんて誰もいないはずなのに大河内君が……。あなたに会って、なつかしさが込み上げてきて。ちょっとホームシックになっただけだし」
「あははは、そうだったね」
大河内と向かい合う形になり、彼の笑顔が目の前ではじける。
「大河内君のイジワル……」
余裕のある態度を見せる彼になぜか素直になれないわたしがいた。
彼と再会した時、咄嗟に取ったあの行動を後悔している。
挨拶代わりに身体を寄せ合い、軽くハグすることも多いこの頃、相手が日本人であるにもかかわらず、いつものように抱擁してしまったのだ。
そして、胸の中にたまっていた寂しさや辛さがあふれ出て、泣いてしまったあの日。
出来ることならなかったことにしてしまいたかった。
「ほらほら、そんな顔しないで。君はもう子どもなんかじゃない。その証拠に、こんなにきれいになって、ますます僕をとりこにする」
また見つめられた。
そして彼の手がわたしの頬にかかる寸前で、オーブンが調理の完成を知らせるタイマー音を鳴り響かせた。
「あ……」
「向こうから呼んでるみたいだね」
「うん。見に行かなくちゃ」
わたしは少しほっとしながら彼から離れた。
ギンガムチェックのシャツの袖を捲り上げ、珍しくジーンズ姿の大河内がキッチンに入って来る。
こちらで彼に会うようになってからは、いつもスーツかシャツにスラックス姿といかにも大河内らしいパリッとした格好だったので、とても新鮮に感じる。
ロスの初夏は、ちょうど日本のゴールデンウィークの頃の爽やかな気候に似ている。
早朝はやや湿気を含んだような重い感じがしても、日中になるとカラッと晴れて、乾燥した心地よい風があたりに吹き抜けていく。
手作りパンと、ミネストローネ。
そしてオーブンで焼いたローストビーフとリーフレタスとトマトのサラダをテーブルに並べると、それぞれのグラスにワインを注ぎ、大河内と向かい合って座った。
「髪、伸びたね」
軽くグラスを合わせた後、わたしをじっと見つめてそんなことを言う。
彼に見つめられると落ち着かなくなり、つい目をそらしてしまうのだ。
「柊……。ねぇ、こっちを見て」
いや、そうは言っても、そう簡単に見つめられるものではない。
わたしと違って彫が深く色白の大河内は、スター俳優のようでもあり、とても眩しい。
仕事でも買い物先でも現地の人と間違われて、俗語も交えたくだけた英語で話しかけられて困っているとも言っていた。
そんな彼に見つめられると、心の奥底まで見透かされそうで、怖いのだ。
「ふふふ……まあいいさ。ねえ柊。もうそろそろ、この前の返事、もらってもいいかな? 」
この前の返事。そう、きっとプロポーズの返事のことだ。
うん、と今すぐに答えを言いそうになったけれど、今は目の前に並んだ食事を始めるのが先。
せっかく腕を振るった料理も冷めてしまったら台無しだ。
「大河内君、そのことだけど……。食事が終わったら、話す。それでもいい? 」
今度はしっかり彼の目を見て言った。
一瞬困ったような表情を浮かべたけど、すぐに柔らかい微笑みを返してくれた。
この笑顔がたまらない。本当に素敵な人だと思う。
けれど、はっきり言って、大河内が恋愛の対象として好きなのかどうなのか、はたまた愛しているのかどうかはまだわからないと言うのが正直なところだ。
でも、特上のこの笑顔で見つめられると、誰だって骨抜きにされるのは間違いないだろう。
物腰の柔らかさと優しい笑顔は確かにときめきを感じさせてはくれる。