146.願い その2
あまりにも急な大河内の申し出に耳を疑った。
彼はこのわたしと結婚したいと、そう言ってくれたのだ。
大河内はわたしの過去もすべて知っている。
他の男性と暮らしていたことも、その男性や彼の家族と今後も親戚付き合いが続くことも。
すべてわかった上でプロポーズしてくれたのだ。
彼のロス勤務は期限付きで、来年には日本にもどることになっている。
その時一緒に帰国して、お互いの親に会った後、結婚しようと言われた。
その場ですぐに返事は出来なかった。
まさかこんな突然にプロポーズされるとも思わなかったし、まだ過去にとらわれていたわたしは、結婚など全く視野になかったからだ。
返事は保留にしてもらっていて、答えを出していない。
でも、もう自分の中では気持ちが固まりつつある。
それは、父と母が遥のことを話しているのを聞いてしまったからだ。
遥は、本当にしぐれさんと付き合っている、らしい。
あの時、しぐれさんがテレビカメラの前で語ったことが現実になっていた。
少し前に遥の家に、しぐれさんと両親、そして本田先輩の母親でもある伊藤小百合までもが挨拶に来たようだ。
結納もかわし、来年には結婚すると両家で決めているという。
世間にはしぐれさんの仕事の区切り目で公表するらしい。
こればかりはさすがに、頭の中がまっ白になるほどの出来事だった。
あまりの衝撃に言葉を無くし、完全に打ちのめされた。
地獄に突き落とされたかのような苦しみを味わった。
ならばあの週刊誌の記事もでたらめなんかではなく、真実だったとしたら。
遥はとっくの昔にわたしを裏切っていたことになる。
今となっては本当のことは誰にもわからない。
いつから遥としぐれさんが付き合うようになったのかは謎のままだ。
けれど、遥との関係を断ち切ったのは、このわたし。自分で決めたことだ。
その後、彼がどう心変わりしようとそれは仕方がない。
わたしが口出しすることではない。
おばあちゃんが入院して、ようやく病院に駆けつけた遥と一緒に東京に戻った時のあの事件で、このままではお互いに幸せになれないと悟り、日本を離れたのだ。
真木家の二階にあるゲストルームのひとつを、わたしの部屋として使わせてもらっている。
そこに置いてあるドレッサーの椅子に腰をかけ、引き出しからコピーされた写真を取り出した。
これは、遥とわたしの二人が一緒に写った最後の写真だ。
四年前に牧田さんに事の真相を聞いた時、頼み込んでもらった物だ。
事務所にはこれだけでなく、数十枚あるという証拠写真。
新幹線で一緒にいるところ、駅から遥のマンションに向かうところ、朝、マンションから出てくるところ……。
一部始終を雑誌の記者に尾行され、写真を撮られていた。
雑誌出版社の方も心得た物で、むやみにそれを掲載したりはしない。
幸い、遥の所属する事務所とはやや友好的な関係にある出版社だったから、この程度ですんだと牧田さんから聞かされた。
掲載される前に事務所が話をつけ、相手方としても今後の有益な別の情報提供を取り付けたのだろう。
この写真は日の目を見ることなく、計画的に闇に葬られたのだ。
他社やフリーの記者も遥の不審な行動をかぎつけているので、今度撮られたら否応なくスクープされるだろうと牧田さんに厳しく言われた。
建てまえ上、遥はしぐれさんと交際してることになっているので、ただのスクープでは済まされないことくらいわたしにもわかる。
女にルーズな男として、遥が世間の厳しいジャッジを受けるのは間違いない。
それならばまだいい方だ。
わたしとの付き合いを隠すため、しぐれさんをカムフラージュに使ったとバレた時、世間を欺いた新人モデルとして、この世界から追放されることだって有りうる。
しぐれさんも伊藤小百合も立場が危うくなるかもしれないのだ。
このまま東京に居たら、必ず遥がわたしに会いに来る。
わたしだって、彼に会いたくてたまらなくなる。
東京に限らず、日本中どこにいても、遥はやってくるだろう。
もう日本にいることは出来ないと、出国を決意したあの日。
四年前に全てが終わってしまった。
遥もしぐれさんとなら、うまくやっていけると思う。
遥は製作側で、しぐれさんは演じる側。
立場は違っても、同じ道を志す者同士、二人を妨げるものは何もない。
そうは思ってみても、やっぱり自分に嘘はつけない。
こうやって距離をおけば、そのうち彼が迎えに来てくれるのではないか。
モデルの仕事も区切りが付いて、大学を卒業したらきっとやり直せると思っていた自分がいたのも事実だ。
先月帰国した時、遥に会いにいく心積もりもあった。
でも、しぐれさんと婚約したのならもう会う理由もないし話をする必要も無い。
綾子おばさんに、遥には絶対にしぐれさんと幸せになって欲しい、と告げた。
おばさんは涙をポロポロこぼして、ごめんなさいね柊ちゃん本当に本当にごめんなさい、と泣きながら謝ってくれた。
心が痛かった。
ずきずきと心の傷口が痛んだ。
おばさんは何も悪くない。
遥の言い分も聞かず、勝手に別れを決断したわたしが悪いのだから。
「おばちゃん、泣かないで。わたしは平気だよ。遥が幸せになるなら、それが一番。今でも遥はわたしにとって大切な親戚で家族なんだから。だから、気にしないで。遥の幸せを誰よりも願ってる。それと、実はわたしも……。いい出会いがあったの。今度帰国する時は、その人に会ってもらうかも……」
これ以上、おばさんを苦しませるわけにもいかず、精一杯の笑顔でそんなことを言った。
するとおばさんは、えっ? と言って、ほんの一瞬怪訝そうな目を向けた。
でもすぐに笑みを浮かべて、よかったね、そうだったの、よかったよかったと、わたしの手を何度も握ってくれた。
泣いてるのか笑ってるのか、どっちかわからないぐしゃぐしゃな顔をして。
遥の幸せのためにも、そしておばさんや家族を悲しませないためにも、大河内との出会いを大切にしようと思った。
そして遥の幸せを、心から願った。