145.願い その1
心地よい風が吹き抜ける六月を迎えた。
明日から一週間、真木夫妻は祐太兄さんの日本出張に伴ない、突然帰国することになった。
わたしは先月日本に帰ったばかりなので、今回は留守番ということになる。
こちらの家は部屋数こそ日本でいうところの3LDKなのだけれど、各部屋がやたらと広いのが特徴だ。
一階は台所とリビングとその一角に備えられた家事室があり、二階に寝室とゲストルームが二部屋ある。
吸引力のあるサイクロン型の掃除機を使っての掃除は、これまた結構疲れる。
土足厳禁にしているので汚れがひどいわけではないが、これも日本人のサガなのだろう。
毎日掃除機をかけないと気がすまない。
こちらの主婦は決めた曜日に掃除をするのが一般的で、毎日すると言ったら、誰がそんなに汚すの? 信じられない! と隣のアメリカ人ファミリーにひどく驚かれてしまった。
そして庭がこれまた広く、おまけに玄関のある正面側だけでなく裏側にもあるものだから大変だ。
もちろんうちの実家の庭の方が、面積的にはずっと広いかもしれないけど、管理が大変で困ったという記憶がない。
車を停めるスペースや納戸を広く取っているし、ところどころに木が植えてある程度の殺風景な庭だから、ほとんど手入れなど必要がなかったように思える。
ところがこちらではそうはいかない。
庭も町の景観の一部なので、芝刈りや植え木の剪定も怠れない。
木を動物の形に刈り込むトピアリーも、放っておくとすぐにわき芽が育ち無残な姿になる。
共働きが主流のこの国では、専門のガーデナーを雇っている家も多い。
芝の植え込みに取り付けてあるスプリンクラーが届かないところはバケツで水を運ばないといけない。
水遣り作業にも骨が折れる。
わりと治安のいい街区なので一人で留守番することに不安はないけど、家を維持するための家事労働が多いため、のん気に一人暮らしを満喫するなんて言ってられない。
でも、ハウスキーピング(家事)のための便利用品も多く、それを使う楽しみも知ってしまった。
だから、多分、一人でも大丈夫。ちゃんとやっていける……と思っている。
規子姉さんたちが留守の間に、この家の中も外もびっくりするくらいきれいにしてやろうと、ひとり勝手に息巻いていた。
「柊ちゃん、それじゃあ留守番お願いね。そうそう、ガソリンも満タンにしてあるから。大輔さんとドライブするといいわ。もちろん、ゲストルームも使ってもらっていいわよ。夜、寂しかったら、泊まってもらいなさいね。その方が安心かも、うふふ」
もう四十歳を迎えるというのに、規子姉さんはいつまでも少女みたいで、茶目っ気たっぷりにそんなことを言う。
遥とは結婚前提の付き合いで同棲までしていた、というのはすでに規子姉さんも周知していることで、今さら男性との付き合い方にあれこれ気をもむ必要もないと思われているのか、いとも簡単に泊まってもらえばなどと言う。
わたしを一人の大人として尊重してくれている故の発言だろうけど、いくらなんでも彼と一夜を明かすなど、もってのほか。
大河内とは、あくまでもまだ友人の域を出ていないのだから。
規子姉さんは、わたしと遥のことも全て知っている上で、大河内の出現を歓迎してくれているのだ。
まだ若いのだから、過去にとらわれず前向きに生きていきなさい、というのが彼女の口癖だったりする。
規子姉さん夫婦には子どもがいないので、一生ここに居ればいいとまで言ってわたしの滞在を歓迎してくれているけど、日本にいる両親もおばあちゃんも、もちろん隣の堂野家の人たちも、わたしにはかけがえのない大切な家族だ。
いくら遥に会うのが辛いと言っても、一生このままの状態を続けるわけにはいかない。
家族に何かあった時はここを離れる覚悟もできている。
それに、規子姉さん夫婦もこれから先ずっとアメリカ勤務が続くという保障もない。
いつかは日本に帰る日がやってくる。
その時わたしはどうすればいいのだろう……。
もう少し。あともう少ししたら心の傷が癒える時が来るかもしれない。
そうすれば、日本に戻って前のように暮らしていけるんじゃないか、とまで思えるようになってきた。
たとえ遥に会うことがあっても、もう大丈夫だと思う。
遥が隣で伴侶と共に新しい家庭を作っていたとしても。
前を向いて歩んでいけるはず。
そう思えるようになったのも、大河内のおかげなのかもしれない。
規子姉さんは彼のことを大輔さんだなんて、まるでわたしの婚約者のように親しく呼びかけるけれど、決してわたしからはまだそんな風には呼んだことはない。
わたしにとっては彼はまだ、同級生の大河内君のままだ。
でも彼に抱きしめられ、未来を語り。
そして数々の愛の言葉を告げられるこの頃、ただの同級生のままでいられる日もあとわずかのような気がしていた。
あれは先月の出来事だった……。
確か、わたしが帰国する前の休日だったと思う。
大河内に呼び出されて、町外れにあるショッピングモールに出かけた時だった。
フランス風のカフェをイメージした店のテラスで、ふと黙り込む彼にじっと見つめられ、そして。
「柊、僕はずっと君のことを思ってきた。君も、今は僕のことを見てくれているよね。そして受け入れてくれた。君の過去など、今の僕には何の障害にもならない。蔵城柊さん、どうか、僕と結婚してくれませんか? 」
わたしは、大河内大輔にプロポーズされたのだ。




