143.新しい光 その1
アメリカと日本を往復するようになって、もう何年になるのだろう。
シカゴにいるやなっぺに、すがるような思いで日本を出たのは四年前。
大学を休学し、シカゴの語学学校に籍を置いた時のことを、なつかしく思い出していた。
留学生はいろいろ規制があり、バイトも思うように出来ない。
資金難に陥るのも時間の問題だった。
子どもの頃からこつこつ貯めていた貯金も、語学学校の学費に全て消えてしまうありさまだ。
初めはやなっぺの借りているコンドミニアムで共同生活をしていたが、資金が底をついてしまったため、泣く泣くシカゴを去ることになった。
もちろんやなっぺは、わたしを日本に追い返すなんて非情なことはしない。
お金なんてなくったって二人で力を合わせればなんとかなるよ、柊の気の済むまでここにいればいいんだから。
と引きとめてくれたのだけど……。
金銭的理由で彼女との友情にひびが入るなんて、あってはならないこと。
計画性のないわたしの行動がこのような結果を招いたのだ。彼女には何の責任もない。
アメリカに行けばどうにかなると思っていた。
でも結局どうにもならなかった。
海外生活に対する見通しの甘さを身を持って経験しただけだった。
だからと言って、そそくさと日本に戻るなんてできない。
遥との思い出がいっぱい詰まった実家でずっと暮らすなんて、当時のわたしには、宇宙に行くより困難なことのように思えていた。
そんな時、わたしがシカゴに滞在していることを聞きつけた親戚が助け舟を出してくれたのだ。
ロスに駐在している母の従妹夫婦がわたしを呼び寄せてくれることになったのだ。
あこがれの西海岸に生活の場を移し、彼らの家に居候をしながらなんとか今までやってきた。
在籍していた東京の大学の方は、行きもしない学校の学費を払ってもらうのはしのびなく、もう日本に定住する気は全くなかったので、三年次を迎える時、そのまま退学してしまった。
そして先月。
日本に帰った時、遥の近況を知ることになる。
決して自分から聞いたのではないが、両親が隣の部屋にいるわたしの存在に気付かずに話しているのを、たまたま耳にしたまでのこと。
遥との関係が終わってからは、誰もわたしの前で彼の話をする人はいなかったし、わたしから探ることもしなかった。
終わったことを蒸し返すのも嫌だったし、自分なりにしっかりと考えて出した結論に後悔はなかったからだ。
遥はこの春大学院を出て、かねてからの希望通り民放の放送局に勤務しているらしい。
それも実家のある地元ではなく、東京のキー局だ。
学生時代、順調にモデルの仕事をこなしていた遥は、大学院の二年目を迎える時、スパッと仕事を辞めた。
本当は大学の四回生で辞める予定が、事務所の要請で一年のび、それでもかなり惜しまれての引退だったらしい。
これはやなっぺからも聞いていたので別に驚くこともなかったけれど、他のプライベートな情報に胸を粉々に打ち砕かれ、一晩中ベッドで泣いていたのには自分でもあきれた。
まだわたしの気持ちの中に遥の存在がまざまざと残っている事実を突きつけられたようで、どうしようもなく辛かった。
ロスにいても、インターネットで彼の活躍ぶりを知ることは可能だったけれど、真実を知るのが怖くて、どうしても検索ボタンをクリックすることができなかった。
今回知った内容は、わたしを再び四年前の状態に引き戻すほどの威力を持っていたのだ。
せっかく全てを忘れかけていたのに。
何も聞きたくなかった。
それでも、消しても消しても消えることはない。
遥が再びわたしの身体中によみがえってくるのを今また、はっきりと自覚していた。
ロスではボランティア団体が開設する語学学校に通い、思ったよりも順調に英語の習得が進んだ。
おかげで、日常会話は難なくこなせるまでになった。
それもこれも母の従姉妹の規子姉さん夫婦の力に拠るところが大きい。
旦那さんの会社の取引先でもあるアメリカ人を週末になるたびに家に招き、ささやかなパーティーを開くのがこちらのありふれた日常だ。
日本でパーティーなんていうと、気負いすぎる余り準備の段階で疲れ果ててしまうのがおちだが、こちらのそれは気の張らないものがほとんどで、各所で気楽に催されるのが常だった。
珍しいワイン一本で皆が集まり、産地や歴史などを知るところから始まり会話を楽しむのだ。
缶詰しかり、香辛料もしかり。
とにかく何でもパーティーの主役になる。
彼らの話術は巧みで、ユーモアにあふれている。
何度も触れ合ううちに、言葉の壁も乗り越え、お腹のそこから笑えるようになってきた。
和食も人気で、寿司はもちろんのこと、豆腐もサラダ感覚で喜ばれる一品になった。
何も特別なしかけは必要ない。
人が集まり、つまむものがあれば、それだけで立派なパーティーが成り立つ。
日本独自の市販のルーで作ったカレーライスもナスやズッキーニを入れて振舞ったところ思いのほか好評で、同席していた女性陣からレシピを教えてとせがまれたりもした。
そうやってお互い招き招かれ、あるいは彼らのバカンスに同行してバックパッカーやキャンプをしたりするうちに、いつの間にか自然と英語が身につき始めたのだ。