142.分かれ道 その3
遥と一緒に部屋を出て、マンションのエントランスから通りに面した道路に足をふみ出したとたん、斜め前に止まっていた白いワゴン車が短くクラクションを鳴らした。
誰? 一瞬にして緊張が走り、助けを求めるように遥の方を見た。
が、しかし。車の窓から顔を出したのは牧田さんだった。
血相を変えて早くこっちへと私たち二人を手招きする。
咄嗟に遥に腕をつかまれ、車のドアのところまで連れて行かれた。
「早くっ。早く中に入って! 」
牧田さんの叱責にも似た怒鳴り声に身をすくめながら、スライド式の自動ドアが空いた二列目のシートに、遥と共に素早く身を忍び込ませた。
ドアがピピピという電子音とともに閉まったのを確認すると、牧田さんが運転席で上半身を翻し、私たちの方に身を乗り出した。
「堂野君、いい加減にして! おばあさまのお見舞いだって言うから、社長にも掛け合って緊急に休みをもらったっていうのに。彼女連れでここに出てくるなんて、いったいどういうこと? エントランスのドア横の駐輪場。あそこに人がいたのよ。路上にも不審な車が何台か止まってるわ。記者だったらどうするのよ。あたしだって彼らの顔を全部覚えてるわけじゃないんだから、もし撮られてたら大変なことになるわよ」
牧田さんの声は怒りに震えていた。
「すみません……」
遥は視線を下に落とし静かに謝った。
「マンションから出るときは、時差をつけてバラバラに出る。これは常識でしょ? 」
「はい……」
「あなたなら、そんな事いちいち言われなくてもわかるはずよね? 」
「はい」
「二人並んで、それも朝よ、朝っ! それが何を意味するか、若い男女がどんな関係かなんて一目瞭然よね。それなのに、堂々と人前に出てくるなんて、どういうこと? 」
「……はい」
「どうぞ撮って下さいってお願いしてるようなものだわ。堂野君、ほんっとに気をつけてね……」
「本当にすみません」
謝罪の言葉は発していても、それが心からの言葉なのかどうかはかなり疑わしい。
長年そばにいるわたしから見れば、遥の態度がやや反抗的に感じるのは、おそらく間違いではないだろう。
「ふぅー。まあいいわ。私も少し言いすぎたわね。あなたたち、会うの久しぶりなんでしょ? 」
遥がはっとした顔をして牧田さんを見た。
彼女の怒りモードが突然収まったのが意外だったのかもしれない。
「堂野君もハタチになったんだし、あんまり細かいこと、とやかく言いたくないんだけどね」
「あ、はい……」
「常に気を抜かないで。大変だと思うけど、そこは完璧にやって欲しいの。あなたなら出来るはず。それと、蔵城さんも……。彼が暴走ぎみになった時は、あなたが制御してくれなきゃね。頼んだわよ」
「す、すみませんでした。わたし、あの、その……」
わたしにだって責任の一端があるわけだし、謝るのは当然の結果なのだけど。
牧田さんの圧倒的な気迫に押され、うまく言えない自分がもどかしい。
「あら、そんなに怖がらなくても……。いいのよ蔵城さん。もう、気にしないで。終わったことをくどくど言っても、時間は元にもどらないし」
「すみません……」
「でもさ、あなたたちって、ほんと仲がいいのね。なんだか私がとっても悪いことしてる気分になっちゃうわ。ああ、いやだいやだ、因果な仕事ね。こんな若くて罪の無い人たちを、大人の醜い世界に巻き込んでしまうんだもの。さーてと、今日の予定だけど……」
それ以上責められることもなく、スパッと話題を切り替えた牧田さんは、今日の仕事のスケジュールを遥と共に確認する。
先にわたしのアパート近くに寄ってもらい、人通りの少ないところで車を降りた。
じゃあ、と言う遥に、それじゃあと言って別れる。牧田さんにも深々と頭を下げ、改めてお礼を言った。
車内が見えないように貼ってあるミラーシートに外の景色を写しながら、遥と牧田さんが乗ったワゴン車がぐんぐん遠ざかって行く。
どうしたのだろう。
なぜか無性に車を降りたことが悔やまれるのだ。
このまま仕事先まで着いていきたかった。
帰るな、遥から離れるな……と誰かが進言してくれているような妙な空気がわたしを取り囲む。
いやな胸騒ぎがする。
重い身体を引きずるようにしてアパートに向かう。
けれど何度も振り返って車の行った方向を見てしまうのだ。
そこにいるはずのない遥の姿を必死になって探している自分がいた。
次の日の午前中、携帯が鳴った。牧田さんからだ。
心のどこかでこうなるのを予言していたかのように、研ぎ澄まされた感覚で、牧田さんの一言一言を胸に刻みつけた。
彼女に指定された場所に赴き、事の全容を知らされた。
全てが終わった。
その日の午後、アパートにはもどらずにそのまま在来線に乗り、快速電車を乗り継いで、実家のある西へと向った。
夜遅くにようやく家に帰りついた。
その時の両親の驚いた顔。そして、何事かと駆けつけてくれた綾子おばさんと希美香の血の引いた青ざめた顔に、事の重大さを思い知らされる。
呆然と立ちすくむわたしを支えてくれたのは、両親と遥の家族だった。
そして間もなく、海を渡る決心をする。
聞いてよ、やなっぺ。
もうわたし、日本には……。
いられない。
そっちに行っても、いい?
遥は、遥はね。
わたしと共に歩く相手じゃなかった。
わたしは彼の妻どころか、彼女にすら、もうなれないの。
助けて、やなっぺ。
会いたい。
やなっぺに会いたいよ。
メールを送るとすぐさま彼女から電話がかかってきた。
わたしは彼女の声を聞くや否や、その場で泣き崩れ、ますますやなっぺを混乱させてしまった。