141.分かれ道 その2
宅配便を手配したので手荷物は少ない。
遥もほとんど手ぶらに近い格好だ。
二人で乗り込んだ新幹線の中は、週末のせいもあるのだろう。家族連れがとても多い。
ついついおばあちゃんくらいの年齢の女性を目で追ってしまう。
おばあちゃんもあんな風に元気に歩いていたのになあ、などと思い胸が苦しくなる。
遥と一緒に暮らす前の春休みに、おばあちゃんを東京に呼んだことがあった。
わたしの狭いアパートに泊まってもらい、遥と三人で枕を並べて眠ったのが遠い昔のことのように思える。
東京タワーにものぼった。
工事中のスカイツリーも浅草に行ったついでに見に行った。
今度は是非スカイツリーにのぼってみたいと言っていたおばあちゃんの夢が実現する日を願うばかりだ。
おばあちゃんが元気になって、再び東京に来てもらえる日が来るのだろうか。
看病半ばで東京にもどることになって、胸が痛い。
もしも地元の大学に進学していたなら……。
看病も学業も両立できたかもしれない。
けれど、遥と一緒にいる道を選んだわたしには、それは叶わぬこと。
遠く離れた地で、おばあちゃんの回復を待つしか方法はない。
スーツ姿の疲れた顔をしたサラリーマンが、通路をはさんで隣の座席に座っている。
駅で買ってきたのだろうか。
缶ビールのプルトップをプシュッと引き上げて、こぼさないように急いで口をつけた。
ごくりと飲み込んだあと、さも満足げに、はあーーと息とも声とも異なる音を発した。
遥も気になるのか、横目でその様子を見ているようだ。
「私達も何か飲み物、買ってくれば良かったね。そうだ、車内販売で買う? 」
「いや、いい」
てっきり遥も飲みたいのだと思っていただけに、こうも簡単に否定されると肩透かしを食らった気分になる。
あとの会話が続かない。
ところがすぐさま彼の腕がわたしの首の後ろをするりと抜けて、座ったままぎゅっと横向きに抱き寄せられた。
サラリーマンがちらっとこちらを見たような気がしたが、別段そんなカップルが珍しいわけもないのだろう。
すぐに二本目のビールを取り出し、小袋パックになったピーナッツをつまみに、一人で酒盛りの続きを始めていた。
遥の大胆な行動にどぎまぎしながらも、夕べ久しぶりに二人の夜を過ごした事実が導火線になったのか、彼とのすき間を埋めるようにわたしの方からも寄り添い、肩に頭をもたせかけた。
時折り車内に流れるアナウンスに耳を傾けながら、電車の揺れに身を任せる。
サングラスをかけ帽子を目深にかぶり、顔を隠している遥だけど、誰にも気付かれなかっただろうか。
事務所からきつく言われているのだろう。
座席に着いてからもそれらを取ることはなかった。
過剰な防御が逆に不自然さを煽っているような気もしないでもないけど、それも仕方ない。
今だけは何もしゃべらず、何も考えず。
ただ彼と同じ空間にいることだけを全身で感じながら、そっと目を閉じた。
予定通りに東京駅のホームに降り立ち、そのまま遥のマンションに向かった。
明日の昼頃わたしのアパートにもどり、月曜日には大学に行く。
大雑把だけど、この計画で遥と意見が合致した。
マンションのエントランスに入った瞬間、誰かとすれ違った。
ドキッとしたけど、オートロックのマンションの内側に記者がいるとは思えない。
遥もまだここに来て日が浅いので住人かそうでないかの見分けはつかないが、多分大丈夫だろうと、いそいそとエレベーターに乗り込んだ。
夕べはお互いのぬくもりを心ゆくまで味わったせいで、睡眠時間が少なかった。
新幹線でもうとうとしていたけど、遥のベッドもぐりこむや否や力尽き、夢の中に堕ちていくのに時間はかからなかった。
遥の胸に顔を埋め、抱き合って眠ったはずなのに、ベッドのど真ん中で掛け布団をほぼ独り占めした状態で目が覚めた。
遥は……というと。
今にも床に落ちそうなくらい端に追いやられ、片方の腕は下に垂らしたまま、うつ伏せになって眠っている。
こっちを向いている無防備な寝顔が幼く見えて、笑いがこみ上げそうになったけれど、そんなのん気な気分に浸っている場合ではないことにすぐさま気付いた。
あと三十分で、牧田さんが迎えに来る時刻になる。
何度身体を揺すっても起きようとしない遥を、やっとの思いで目覚めさせるのに成功したのも束の間、眉間に深い皺を寄せ、難しい顔をしてわたしを睨むのだ。
くそっ……と、意味不明に悪態を付きながら起き上がり、自分の髪をくしゃくしゃとかき回す。
シャワーをあびるためバスルームへ向うのを区切りに、ようやく朝の一連の流れが次のステップへと動き出す。
シャワーを終えた後もずっと不機嫌で、立ったままパックの牛乳を直接喉に流し込み、仕事用の服に着替え始めた。
昨夜マンション近くのコンビニで買ったパンを食べるように薦めても、食いたくないの一点張り。
わたしの存在などまるでそこにないかのように遥のペースで準備が進んでいく。
髪にワックスをつけて手早くセットを済ませると、もう行くぞと言って、もたついているわたしを急かすのだ。
洗面台の前に立ち、大急ぎで髪をとかした。
ポーチからリップを出し、キャップをはずして唇に塗ろうと鏡を覗き込んだ時、遥がわたしの後ろに重なるようにして立っている姿が写った。
「ごめんね、遥。すぐに終わるから。あと少し待って……」
振り返って謝ると、間髪入れずに彼に抱き締められた。
そして唇が重なる。
もう時間がないのに、それは何度も何度も繰り返された。
今が朝だというのを忘れそうになるほど、激しく、燃えるような口づけだった。
ようやく離れた遥の唇は何か言いたげで、今まで見たこともないような悲しげな瞳がわたしの心を乱れさせる。
「……そろそろ行こうか。今夜は仕事で帰れそうにないけど、明日はなんとか時間作って柊のアパートに行くよ」
「えっ? わたしのアパートに? 」
いったいどうしたと言うのだろう。
遥らしくない。
アパートに来るなんて、そんなことしたらどうなるのか。
それは遥が一番よくわかっているはずなのに。
「遥。それはダメだよ。牧田さんに言われたでしょ? いつどこで、誰に見られてるかわからないのに……」
「わかってる。わかってるけど……。無理だよ。無理なんだよ。じゃあ、柊がここに来てくれ。それならいいだろ? 」
「そんなあ……。大丈夫かな、心配だけど。でもわたしのことは誰も知らないだろうし。じゃあ、明日仕事が終わったら連絡して。なるべく目立たないようにして、マンションに入るから」
「絶対だぞ。俺が連絡したら、必ず来るんだぞ! いいな、わかったな! 」
わたしのことが信じられないのだろうか。
何度も念を押す遥の顔が夜叉と重なる。
なんだか怖い。
「遥、なんか変だよ。いったいどうしたって言うの? 絶対ここに来るから。だからわたしを信じて……」
ようやく納得したのか、強くわたしを揺すぶっていた彼の腕の力が抜け、微かに笑顔が浮かんだように見えた。