140.分かれ道 その1
「柊、本当にもう東京に帰ってしまうのか? まだ大学は休めるんだろ? 何も、そんなに急がなくてもいいじゃないか。もう少しゆっくりしていけばいい」
「あなたったら……。柊はもう充分やってくれたわ。あの子のおかげで、おばあちゃんも大事に至らなくて済んだんだし。ね、気持ちよく送り出してあげましょうよ」
「それはそうだが。何も遥に合わせることはないだろ。柊は別の日に帰ればいいんだ。娘が好きなだけ実家に滞在して、何が悪い! 」
東京のアパートに戻ろうとするわたしを前に、父と母の押し問答が始まった。
もう帰れと言ったかと思えば、やっぱりまだ帰るなと言う。
父はわたしが遥と行動を共にするのが気に入らないのだ。
「だからもう充分だって行ってるのよ。それに、はる君が一緒に帰ってくれる方が安心じゃない。大学の勉強だってたまってるだろうし。もし単位が足りなくなったらどうするの。親が子どもの勉強の邪魔をしていいわけないじゃないですか! 」
母のもっともな言い分に、父がばつが悪そうに顔を背け口を閉ざした。
「父さん、いつも勝手ばかり言って、本当にごめんね。ここにずっと居たいけど、そうもいかないでしょ? おばあちゃんも綾子おばさんも、早く大学に戻りなさいって言ってくれたし。向こうの友だちだって、心配してくれてるみたいなの。勉強も気になるし、バイトだって辞めちゃったから新しく見つけなきゃ……」
「わかった、わかった。もういい」
父がはき捨てるようにそう言って、わたしの話を途中でさえぎる。
「もう、勝手にしろ。さっさと東京にでもどこにでも行け」
わたしの目の前に父の背中が大きくはばかり、視界を塞いだ。
取り付く島もない。
「父さん、待って。お願いだから、ちゃんとわたしの話を聞いて」
「これ以上何を聞けと言うんだ。次に帰って来るのは正月か? 」
「多分そうなると思う」
「どうせまた遥の奴、仕事かなんか知らんが、いろいろ理由を付けて帰ってこないつもりなんだろう。あんな奴はもうどうでもいい。おまえだけでもちゃんと帰って来るんだぞ、いいな! 」
「うん、わかった。必ず帰って来るから。遥だって本当はおばあちゃんのこと心配でたまらないの。わたしなんかよりずっと心配してる」
「あれが心配しているやつの態度か? はん、モデルの仕事でちやほやされて、いい気になってるんだろ? あいつには、今回ばかりは大いにあきれた」
「だから遥のこと、そんな風に言わないで。そうだ、年末までに何度か帰るようにするから。ねえ、父さん、そんなに怒らないで欲しい……」
「俺は怒ってない。おまえと遥に呆れているだけだ。もう勝手にしろ。じゃあ、俺は行くからな! 」
駅まで送ると言ってくれた父の申し出を断ったのが気に入らなかったのだろうか。
こんな状況で遥と一緒に父の車に乗る方が、よっぽど揉める原因になると思う。
もう日が沈みかけているというのに、父は今から田んぼに出て、稲の様子を見に行くと言ってきかない。
ぷりぷりと怒りを露わにしながら玄関の隅にある長靴を引き寄せ乱暴に足を突っ込んだ。
何も悪くない長靴が怒り心頭な父の恰好の餌食になり、粗末に扱われて気の毒になる。
父を不機嫌にさせたまま家を出るのがしのびなかったけど、ここでこれ以上時間を取るわけにはいかない。
じゃあ行ってくるねと言って玄関を出たところで、不意に父に呼び止められた。
「おい、柊」
また何か文句を言われるのだろうか。
わたしはびくっとしながら恐る恐る振り返った。
「おばあちゃんのこと、感謝してるぞ。おまえがいてくれて助かった」
「う、うん……」
父もわたしと同じ気持ちだったのかもしれない。
気まずい空気のまま別れるのを良しとしなかったのだ。
父の言葉は、あまりにも突然だったので、気の利いた返事などできるわけもなく。
もじもじしながらその場に立ち止まっていると、再び父が声を荒らげ始めた。
「ほら、何をもたもたしてるんだ。早く行け! 遥が待ってるんだろ? 」
「あ、そうだね。急がなくっちゃ。父さん、母さん、行ってきます。いろいろありがとう」
「新米が採れたらすぐに送るからね。玉ねぎとジャガイモも貯蔵の分がまだいっぱいあるから、無くなったら知らせなさいよ。大根も来月にはいい具合に育ちそうだから」
「わかった。母さんも元気でね。無理しちゃダメだよ。じゃあ、行くね。おばあちゃんの病気が良くなるように、ずっと祈ってるから……」
わたしの言葉なんて全然聞いてないようなそ知らぬ顔をして、作業着姿の父が農具を取りに行くため、納戸の方に向かってすたすたと歩いて行った。