138.なつかしい腕の中で その2
次の瞬間、踵を返し、廊下の向こうにある洗面所まで走った。
遥はこの家の中にいる。なぜか急にそう思った。
すると、やっぱり。
歯ブラシをくわえたままの遥が、腰に手をやり不思議そうな顔をしてこっちに振り向いた。
「遥……」
「んん? どーひた? 」
頬の内側にある歯ブラシが遥の言葉を遮る。
わたしが心配して探し回ったのも知らず、のん気そうに、どうしたなどと訊くのだ。
「まだ寝てればいいのに。柊も疲れただろ? 夕べは久しぶりだったもんな。そっちの身体のことも考えずに、突っ走ってしまった。悪かったな」
口をゆすいだ後は、かつぜつ良く、はっきりと明確にそんなことをのたまう。
それもこの上なく清清しく、極上の笑顔まで貼りつけて。
どうしたもこうしたもない。
朝の清らかな光が射す母屋で話す内容じゃない。
とんでもないことを平気で口にする彼の背中を勢いに任せてパシッと叩き、熱くなる頬を押さえながら居間に戻った。
夕べはあんなに大胆になれたけど、朝、目覚めた瞬間から、いつものわたしに切り替わる。
何だかとてつもなく恥ずかしかった。
遥の顔がまともに見られなかった。
ちょっとくらい遥の姿がみえなくなったからって。おろおろした自分が情けない。
心配して……損した。
居間の壁にかかった時計を見るとまだ七時だ。
着替えを済ませ、南側に面している廊下の窓の雨戸を全部開け放ち、爽やかな風を室内に取り込む。
そして、しわくちゃになったシーツを洗濯機に放り込み、庭に布団を干した。
まさか乱れた寝具を後でここに来る父の目に触れさせるわけにもいかないので、証拠隠滅には手を抜けない。
まるでベテラン主婦のようにてきぱきと指示を出し、すぐに事情を察した遥は素直にわたしに従った。
猛スピードで朝の家事が進んでいく。
これで大丈夫だ。父や希美香が来ても胸を張って堂々としていられる。
朝食を食べるため一旦隣の実家にもどったあと、遥と父は母屋のおばあちゃんの部屋の荷物を移動して、ベッドの置き場を確保する作業を始めた。
わたしは拭き掃除担当だ。
いつもこまめに掃除をしていたおばあちゃんのおかげで、部屋はそんなに汚れていなかった。
三十分ほどで全て終わり、後はベッドが届くのを待つのみになった。
ここの留守番は父にまかせて、わたしと遥は車でおばあちゃんの待つ病院に向った。
今日は土曜日だというのに、ロビーは診察の受付と会計の患者さんで溢れ返っていた。
午前中は外来診察があるらしい。
遥はつばのある帽子を深めにかぶり、人の中をかきわけるようにして進んで行く。
昨日、東京から帰って来た時のままの服装で病院にやってきた遥は、ここでは完全に異端児だ。
目立つことこの上ない。
不思議な顔をして振り返る人も多い。
もしこのどこかに雑誌の記者が紛れ込んでいたとしても、わたしには全くわからない。
逆に記者からは、遥がここにいることがバレバレなのかもしれないと思うと不安になる。
身内のお見舞いなんだもの。
そんなに神経質にならなくてもいいのかもしれない。
けれど慎重にならざるを得ない遥との連れ立った行動は、わたしを急激に現実の世界へと引き戻していった。
おばあちゃんは、二日前から一般病棟の四人部屋に移されていた。
どのベッドのカーテンも開け放たれ、他の患者さんに挨拶をしながらおばあちゃんのベッドに向かう。
おばあちゃんのそばに座っていた綾子おばさんがわたしたちに気付き、少し腰を浮かせて笑顔を向けた。
「おはよう、柊ちゃん。あら、遥も一緒なのね」
「あ、あの、おばちゃん、おはよう……」
遥と一緒だと気恥ずかしくて、綾子おばさんの顔を真っ直ぐにみることができない。
少し視線を逸らして俯き加減になり、ぼそっとつぶやくように言った。
遥ときたら、相変らずおばさんの前ではふてくされた態度で、何もしゃべらずそこに突っ立っているだけだ。
「夕べは母屋の留守番、ありがとう。ベッドの準備も手伝ってくれたんだってね。大変だったでしょ? 」
「ううん、そんなことないよ。遥がいたから、あっと言う間に終わったし。おばあちゃんも普段からきちんとしてるから、何も困ったことはなかったよ」
「そう、それならいいんだけど。そうそう、卓はちゃんとお兄さんたちの言うこと聞いてるかしら? 」
綾子おばさんは、まだ幼い卓のことが気になるのだろう。
わたしの後ろに立っている遥をちらっと見て、ふっと小さく息を漏らした。