137.なつかしい腕の中で その1
「柊、ありがとう、ここはもういいから。お父さんがお風呂から出てくる前に、早くおばあちゃんの家に行きなさい。でないと、大変でしょ? ほら、早く」
母が、テーブルを拭いているわたしの肩をポンと叩き、風呂場の方をちらちら見ながら耳元でそう言った。
父の気が変わらないうちにここから出て行きなさいと言ってくれているのだ。
いつまた卓の面倒を見ろと言われかねない。
ここは母の助言を無駄にしないよう、裏庭のコンポストにごみを捨てに行っている遥が戻るや否や、あわてて家を飛び出した。
手には着替えが入ったトートバッグ。
大急ぎで詰め込んだので、足りない物があるかもしれない。
たとえ足りなくても一晩くらいどうってことはない。
もし困るようなことがあれば希美香に借りればいい。
いや、夜中にそっと家にもぐりこんで、自分の部屋から足りないものを持っていけばいいだけのこと。
父に出会わなければ何も問題は無いのだから。
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、すたすたと前を歩く遥に遅れないよう、わたしもいつもより歩幅を広げ足早に母屋に向かった。
二人だけの時間は、母屋の居間に入ると同時に幕を開けた。
電気をつけなければ暗くて何も見えない。
天井からぶら下がっている蛍光色の紐に手を伸ばしたところ、おもむろにその手をつかまれ、そのまま彼のそばに引き寄せられた。
廊下のかすかな灯りが居間の障子にぼんやりと二人の影を映し出し、遥の腕の中にいる自分をはっきりと実感する。
彼の首元に顔を埋め、なつかしい香りに包まれた。
なんという心地よさだろう。
わたしの居場所はここなのだと再度認識するのに、そう時間はかからなかった。
けれどそうしていられるのもごくわずかの間だけ。
遥の指がわたしの顎に添えられ、やや乱暴に上を向かされると、彼の唇が強くわたしを覆い尽くした。
何度も何度も角度を変えながらそれは繰り返され、時折漏れる遥の熱い吐息に身も心も溶かされそうになる。
いったい、遥のどこにそんな感情が潜んでいたというのだろう。
ついさっきまで家族と一緒に過ごしていた時は微塵も感じさせなかったのに、今の遥は全くの別人だ。
呼吸すらままならないほど執拗に求めてくる。
身体中の力が抜けてもうこれ以上立っていられないと思ったとき、彼と共に畳の上にどっと倒れこんだ。
同時により激しさを増した口づけの嵐が、彼の重みで身動きできないわたしの上に矢のごとく降りかかる。
彼のすべてを求めてやまなかったわたしは、いつしかすっかり身を任せ、身体の隅々にまで遥の刻印を受け入れていた。
遥が欲しかった。こんなにも彼を欲しいと思ったことはなかった。
次々と押し寄せる深く荒々しい愛の交歓に、何もかも忘れ、ひたすら二人の空間に酔いしれる自分がそこにいた。
雨戸の隙間から、かすかに外の光が差し込み、いつもの朝がやってきたことに気付く。
そうだった。ここはおばあちゃんの家。
東京のアパートでもなく、隣の実家でもない。
いつもと違う壁の色を眺めているうちに、次第に意識がはっきりとしてきた。
「遥? 」
返事はなかった。
隣に寝ているはずの遥を手で探るが、いっこうにそれらしき物に触れることが出来ない。
もどかしくなって起き上がり、部屋の中を見渡した。
けれど遥はどこにもいなかった。
突如、不安に襲われる。
もしかして夕べのことは、夢だったのだろうか。
いや、そんなことはない。シーツの上には、まだ彼のぬくもりが残っている。
確かに彼はここにいたのだ。
昨夜畳の上での戯れの後、遥が風呂の準備をし、わたしが寝具を整えた。
そして、入浴を終えて布団に戻った時、再び彼にスイッチが入り、ひと時たりともお互いに離れなかったのに。
なのに、彼がいないのだ。
もう東京に帰ってしまったのかもしれない。
いつものように牧田さんに呼び出されて、新幹線に飛び乗ってしまったのだろうか。
わたしに何も告げずに?
いやだ。そんなのは絶対にいやだ。
昨晩わたしの耳元でささやいた数々の言葉は嘘だったのだろうか。
もうおまえを離さない、愛している、ずっと一緒だ……。
その全てがひと時の戯言とでも言うのなら、もうこの先、彼の何を信じたらいいのかわからない。
居ても立ってもいられなくなったわたしは、夕べ着ていた上着を無造作に羽織り、障子、窓、雨戸と、いらいらしながらも一つずつ順番に開け放ち外を見た。
朝の太陽は思いのほか眩しい。
わたしは目の上に手をかざし、少し背伸びをして庭の向こうを横切る小道に目をやった。
右手に見える畑にも、その奥にあるわたしの家のあたりにも。
遥の姿はどこにも見当たらなかった。