135.つかのまの その1
今夜の夕食は、誰かの誕生日かと思えるくらい賑やかな食卓だった。
綾子おばさんから遥が帰宅したと聞いていた母が、彼の好物ばかりを食卓に並べてくれていたのだ。
希美香と卓も加わって、久しぶりに我が家が笑い声に包まれる。
でも父は相変わらずで、遥に話しかけないのはもちろんのこと視線すら合わせようとしない。
遥も父の機嫌を取るでもなく、お互いに完全無視を決め込んでいるように見えた。
到底、大の大人が取る態度とは思えない。
二人とも、いったい何を考えているのか、情けなくなる。
この場に同席することが、どれほど精神衛生上よくないかは言うまでもない。
一般的な恋愛関係の場合、彼女の父親には、誠心誠意、気遣いをするのが彼氏たるものの努めではないかと思う。
そして、娘の彼氏には、率先して何か話題を提供するのが父親の配慮というものではないのか。
遥も遥なら、父も父だ。
この二人には世間一般の常識は全く通用しないらしい。
次第にいたたまれなくなり、なんとかこの場をしのごうと、しきりに父と、すでに二十歳を迎えている遥にビールを勧めたり、取り皿を出してきたりと忙しく立ち働くそぶりをする。
そんな努力も空しく、二人ともちらっとわたしを見るだけで会話もなく、ひたすらビールを飲み干すばかりだ。
無言の圧力に勝る物はない。
ついに希美香と卓までもが黙り込んでしまった。
こうなっては、せっかくのご馳走も味わうどころではない。
こんなことなら酔ってくれたほうがましだと思ったのは母も同じだったようで、冷蔵庫からさらにビール瓶を取り出し、さあ遠慮なく飲んで頂戴ねなどと愛想を振りまく。
なんとか場を盛り上げようと手を尽くす母をよそに、遥がおもむろにショルダーバックをひざに抱え上げ、大きめの封筒を取り出した。
そして無言のまま、さも投げやりに父の前にそれを差し出した。
「なんだ? ……婚姻届の署名か? はん、どうせそんなところだろ。そんなものに、簡単にこの俺がサインすると思うなよ」
父がやっと口を開いたかと思ったのも束の間、あくまでも挑発的な態度を崩さない。
やっぱり父は札付きのがんこ者オヤジだ。
「はぁ? 婚姻届? んなもん、持ってねえよ」
遥も負けてはいない。
「ほお、上等じゃないか。なら、そんなくだらないもの、食事中に見るほどのこともないだろ。とっととカバンにしまえ。卓が汚しても知らんからな」
父の目は封筒にとどまることはなく、膝の上に座っている卓の一挙一動に目を細めている。
いや、細めるそぶりをしているのは誰の目にもあきらかなのだが……。
「ほんとにカバンにしまってもいいのか? 後悔しても知らねえし。うだうだ言わず、さっさと開けてみれば? 欲しがってたろ? 女優のサイン……」
女優のサイン。それって……。
そうだ、前に言ってた伊藤小百合のサインだ。きっとそうに違いない。
父も思い出したのだろう。あわてて袋を手にしてごそごそと中身を引っ張り出す。
裏に小さな金紙が散りばめられた、やや上等そうな色紙に、そこにいる一同の視線が注がれる。
父はポカンと口を開けたまま、書いてある文面を食い入るように見ていた。
そして、一字一字を丁寧になぞるように声に出してつぶやく。
「蔵城亮一郎さん江……伊藤小百合……。は、は、遥、もらってきてくれたのか? なんてことだ……。昔から変ってないよ、このサインの書き方。若い頃買ってた芸能雑誌に、サインプレゼントってのがあってな、それに載ってたのとほぼ同じサインだ。俺の記憶が正しければ、間違いなくこれは本物だ」
「本物に決まってるだろ? 俺の目の前で小百合さんが書いてくれたんだから」
「さささ、小百合さんって。おまえ、馴れ馴れしくそんな風に呼ぶな。ああ、まさかこの歳になって、伊藤小百合のサインに出会えるとは……」
父の目が色紙に釘付けになる。
「……よかったな」
興奮する父を横目に、全く感情のこもらない遥の合いの手が入った。
「遥。ほんとうに、これ、もらってもいいのか? 」
すっかり気をよくしてしまった父が、ついさっきまでの冷戦状態などなかったかのように、遥を真っ直ぐに見て言った。
「ああ。恥をしのんで先輩に頼んで、小百合さんに時間を作ってもらったんだ。快く書いてもらった。何枚でも書くと言ってくれたけど、さすがにそれは辞退したよ。それと、東京に来ることがあったらいつでも寄ってくれって。柊が世話になった後、お礼に農作物を送ってくれたんだろ? すごく喜んでいたよ。社交辞令だろうけど、まあ、おじちゃんがその気なら、一度くらい一緒に行ってもいいぞ。あっ、もちろん、おばちゃんも同伴で」
父のグラスにビールを注いでいたのを急遽中断した母の顔が、電光石火のごとく、パッと輝いた。