123.なんかあの人、好きじゃないわ その1
突如、低く唸るような振動音が二人の空間をよぎり、遥の顔がすっと離れる。
「フッ。ここまでか……」
遥は上着のポケットから素早く携帯を取り出し、慣れた手つきで通話ボタンを押し耳にあてがう。
少し間をおいて、普段はあまり聞かないよそ行きの声で話し始めた。
「もしもし……。はい、堂野です……。わかりました。……はい。すぐにもどります」
相手は牧田さんのようだ。
遥とて、こうやってタイムリミットが訪れるのはあらかじめわかっていたのだろう。
声を荒げることもなく淡々と返事をして電話を切る。
そして次の瞬間、携帯を手に持ったまま、わたしを抱きしめるのだ。
さっきよりも一層強く。腕を動かすことも出来ないくらいに。
「俺な、ほんとに柊のこと、好きだわ……。もう、どうしようもないくらい。おまえなしでは生きていけないんだよ。だから、だから、早く俺のところに戻って来て。待ってるから……」
遥はわたしの首筋に顔を埋め、くぐもった声でそんなことを言う。
時が止まった。
体内に取り込まれた酸素さえも行き場を失い、そのまま意識が遠のきそうになる。
立っていることすらままならないわたしは、返す言葉も見つけられず、かろうじて気持ちを保ったまま彼の腕の中に身を預けていた。
「俺、柊が東京に戻ってくるの、ずっと待ってるから」
「うん……」
こくりと頷き、見上げた遥の目は。
心なしか涙で潤んでいるように見えた。
「これ以上牧田さんに迷惑かけられないし。そろそろ行くよ。柊、じゃあな……」
ようやく抱きしめていた腕をほどいた遥は、決心したように素早く会議室のドアに向かい、外まで見送ろうとするわたしを制止する。
再び人々が騒いで、ことが大きくなるのを回避するためだと言って譲らない。
わたしの元から遥が去っていく。
やっと会えたのに、また離れ離れになる。
「はるか……」
ドアのすき間から彼の後ろ姿しか見送ることができないわたしの頬に、涙がほんのひとすじつうっと流れ、言いようのない寂しさに襲われるのだった。
「まさか蔵城さんが、あの堂野遥の親戚だったなんて! 本当にびっくりしたーー! 」
閉館後の雑務を終え、帰り支度をしていた江島さんが首をすぼめて両手を広げ、まるで海外のホームドラマに登場する俳優のようなオーバーリアクションで、おどけてみせる。
「なんで今まで黙ってたのよ。教えてくれたっていいのに」
「内緒にしてるつもりはなかったんですけど。言うチャンスがなくて、その……」
江島さんに話したとしても、実は彼は恋人なんです……などと言えるわけもなく。
根掘り葉掘り訊ねられるのが怖かったというのもある。
「それにしても堂野遥……おっと、ごめんなさい。やだ、呼び捨てにしちゃった」
ペロッと舌を出し慌てる江島さんは、年上だと思えないくらい、とてもかわいくてフレンドリーだ。
「いや、別に呼び捨てでもいいんです。気になさらないでください」
「蔵城さんったら、まるで彼のお姉さんみたい。ホント、あなたたちって家族みたいな関係なんだね。ふふふ。えっと、堂野さん……だけど。彼、かなり慌ててたよね? 立ち入ったこと聞いて悪いけど、お身内に何かあったんじゃないかと思って。あなたもあの後、落ち込んでたみたいだから……。一緒に帰らなくて良かったのかしら? 急用の場合は申し出てくれれば、仕事を早めに切り上げて帰ってもらってもいいのよ。バイトだからって、遠慮しなくても……」
家族に不幸でもあったのだろうと、気遣ってくれているのだと思う。
親戚が仕事場に血相を変えて駆け込んでくる理由といえば、それが普通なのかもしれない。
が、しかし……だ。
残念ながら江島さんのその予想は、全くはずれていると言わざるを得ない。
ただ恋人に会いたかったからなどとふざけた真実を話せるわけもなく。
なら、どう言えばいいのだろう?
さっき抱きしめられていた時の余韻がまだ身体中に鮮明に残っているせいか、気の利いた言い訳が思い浮かばないのだ。
「江島さん、ご心配をおかけして、すみませんでした。彼は、その、たまたまこちらの方面に、仕事で来てたらしくて、あの、その……。実家の家族の様子なんかを、知りたかっただけっていうか、まあそんなところで……」
「そうなんだ」
「えっと、彼の両親は、モデルの仕事のことをあまり良く思ってなくて、なので、わたしが仲介に入ることが多くて、だから、その……」
もう、しどろもどろで、怪しさ満載の返答になってしまった。
冷や汗がぞわりと額を伝う。