122.このままとけてしまいたい その2
「そ、そんなこと、言われてない。遥はこれからますます忙しくなる予定だから、今後は、今までどおりには会えないかもって、そんな話はしたけど……。ただ、遥の仕事の邪魔になったらいけないと思って、なるべく連絡は控えた方がいいのかなって、そう思っただけで……」
「俺の邪魔に? 柊は本気でそんなこと考えてたのか? なんで俺の邪魔になるんだよ。俺はいつだって柊のことしか考えてない。もしかして、雪見しぐれのことを怒ってるのか? あれはちがうと言っただろ。あれから一度だって、彼女とは会ってない。本田先輩のところへも、もう行ってない。前に柊と一緒に見に行っただろ? あのマンションに先週移ったんだ。だから早く東京に戻って来てくれ。戻ってきて欲しい。な? 頼む。今から一緒に東京に帰ろう」
わたしの手を引き、そのままこの部屋から出ようとする。
それが出来るのなら、とっくの昔にそうしている。
出来ないからここにいるのに、無理ばかり言う。
遥の立場がなくなるから、東京へはもどれないのに……。
「遥はもう、今までの遥じゃないの。記者もあなたに張り付いているっていうじゃない。ここに来てるのも、すでにバレてるかもしれないのよ。わたしといるところを写真に撮られて、大ごとになったらどうするの? しぐれさんにも迷惑がかかるんだし、遥だって仕事を続けられなくなるかもしれないし……」
「ならそれでもいいよ。こんな仕事、こっちから辞めてやる。柊は俺と離れ離れでも平気なのか? 寂しくないのか? 」
そんなわけ、ない。平気でいられるわけがない。
寂しくて、辛くて。何度心が消えそうになったことか。
抜け殻になってしまった自分が、ただ命を繋ぐためだけに呼吸をしている、そんな毎日だというのに。
何も考えずに、このまま遥と一緒にここを飛び出せるなら、どれだけ気持が楽になるだろう。
今すぐにでも東京に帰りたい。
遥のあのマンションで、二人だけで暮らしたい。
でもそれは叶わぬ夢。どうしてそれがわからないの?
「遥、わたしの話を聞いて。遥がもし仕事を辞めたら、遥の周りの人たちはどうなる? 牧田さんは? 事務所は? それに、しぐれさんは? もちろん、しぐれさんの事務所にも迷惑をかけてしまうよね。遥一人の問題では済まないって、それくらいのこと、あなただってわかってるでしょ? 」
遥は片手で髪の毛を掻きむしり、ちっと舌を鳴らした。
思いのままに行動することがどんな結果を招くのか、遥も全てわかっているはずなのに、どうすることも出来なくて、ここに来てしまったのだろう。
わたしに会うためだけに、姿を見せてくれたのだ。
胸が痛い。遥の苦しみがそのままわたしに突き刺さる。
涙があふれそうになるのを堪え、下を向いたままぎゅっと目を閉じた。
次の瞬間つないでいた遥の手が、わたしからすっと離れる。
そして彼の体が目の前に迫ってきたかと思うと、そのまま抱きしめられていた。
サマーニットのジャケット越しに、慣れ親しんだ遥の匂いがわたしを包む。
サングラスも帽子も着けていない無防備な姿の遥に、わずかたりとも身動きが取れないくらい、強く抱きしめられていた。
「……わかってるんだよ。柊の気持ちも、俺の取るべき態度も。でも、俺は……」
ふと、わたしの背中に回った彼の腕の力が緩み、見上げたとたん目が合った。
遠い昔、栗の木の下で見つめ合った時のように頬を染めた遥が、わたしを優しく見下ろしていた。
「今日はこれで帰るよ。柊、今月末には東京に戻るんだろ? 」
「うん……」
何かが吹っ切れたのだろうか。
急に笑顔まで見せる遥にどぎまぎしながらも、こくりと頷く。
「帰る時は連絡しろよ。なんとか時間を作って駅まで迎えに行くから」
「ありがとう。向こうに戻る時はちゃんと連絡する。遥の電話も……待ってる」
「ああ。俺からも電話する。ごめんな、いつも電話してやれなくて……」
「いいの。遥が忙しいってわかってるもの。メールだけでも充分なんだけど。でも、たまには声も聞きたいし」
こんなにも素直な気持になれたのは何ヶ月ぶりだろう。
これまでに心に積み重なった想いを、すらすらと伝えることが出来る。
遥の胸に顔を埋め身体を密着して、やや大胆に甘えてみた。
「……ねえ、遥? もうこっちには帰れないの? 夏休み、終わっちゃうよ。おばあちゃんにもまだ会ってないんでしょ? 」
「ばあちゃんにも誰にも会ってない。夏休み中は、もう帰れないかもな。俺、今日、牧田さんの目をぬすんで、移動時間に抜け出して来たんだ。気付けば、新幹線に飛び乗っていた。帰ったら大目玉食らうだろうな。この先まとまった休みも取れそうにないし、後期の大学の講義も、必要単位ギリギリしか出席できそうにない」
「そうだよね。やっぱり無理だよね。遥、忙しいのは仕方ないけど、健康にだけは注意してね。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て……」
「そっちこそ……。いまの言葉、そのまま、柊に返すよ。なんか、抱きごこちが悪いような気がする。痩せたんじゃないのか? 」
遥の手がわたしの前髪に触れ、額を掠める。
そのまま頬を撫でて下に降りてゆき、指先が唇にたどりついた。
遥の長い指が唇をゆっくりとなぞっていく。
それがわたしであるのを確かめるかのように、執拗に繰り返されるのだ。
永遠に続くのかと思った次の瞬間、そこに彼の唇が重ねられ、再び体が軋むほど強く抱きしめられた。
ああ、このまま、とけてしまいたい。
何も考えずすべてを忘れ去って、遥の腕の中で息絶えてもいいとさえ思った。
私の中の空洞が、すべて遥の愛で満たされていく。
お互いを欲する湿り気を帯びた吐息のベールが、わたしたちをしっとりと包み込んでいった。