116.幸せは背中から その2
「やなっぺ? 大丈夫? 」
息をするのも忘れてしまったと思えるくらいカチカチに固まって藤村を見ているやなっぺの意識を確認するため、彼女の顔の前で手を上下に振ってみた。
「やなっぺ? やーなーっぺ! 」
「あ……。柊。あたし、あたし……」
我に返ったやなっぺが、今度は深く息を吸い込んだかと思ったら、ゆっくりと吐き出した。
「ねえねえ、今の見た? 見たよね? なんだか夢みたい。たった今だけど、ポンって。藤村が背中をポンってしてくれたんだよ。こんなの初めてだ。藤村からあたしに触れたの、ホントに初めてなの。昔、ほんのわずかの期間だったけど、彼と付き合ってた頃、実は手もつないだことなくて。あたしが藤村の腕にしがみついたら、やめろって振り払われた。怖い顔して、睨まれて。完全に拒絶されたんだ。それに、それに……。あの二ノ宮っていう先輩、言ってたよね? 藤村の携帯にあたしの履歴が……」
やなっぺが声を震わせ、涙で潤ませた目をわたしに向ける。
「うんうん。やなっぺの履歴だけ残ってるって。それってやっぱ、そういうことだよね。やなっぺのこと、悪く思ってないって証拠だと思う。っていうか、気になってるのかも。藤村の気持が、やなっぺに向き始めたのかもしれないよ」
二人がメールのやり取りを頻繁に行っていたのは知っていたけど、まさかそこまで親密になっていただなんて。
おまけにさっき先輩にからかわれている時の藤村は、耳まで真っ赤になって恥ずかしそうにしていた。
「やだ、柊ったら! そんなこと言われたらあたし、その気になっちゃうし。でもね、ぬか喜びはしないって決めてる。それに藤村のいやがることも絶対しないってね。これ以上、むやみに彼との距離を縮めたりはしないつもりなんだ。あたしもいろいろと学習したからね。高校時代は彼しか見えなかったから、なんとか振り向いて欲しくて、突っ走るやり方しか知らなかったけど……。高校卒業して、東京に出て来て、いっぱい友達に囲まれて。男の人の心理とかも少しは理解できるようになったと思う。もし今回のこの旅行で藤村に拒否されたら、きっぱりとあきらめるつもりだった。だから今、すんごく幸せだよ。だって考えてもみてよ。背中をポンってされただけだよ? なのに、こんなに幸せな気持になるなんて、信じられない! 他の男友だちとは、一晩寝てもこんな気持ちにはならなかったのに」
や、やなっぺ……。いったい誰と、その、一夜を共にしたと言うの?
やなっぺのことだもの。そういった経験もあるだろうとは思っていたけれど。
でも、そういったこともさりげなく語れるやなっぺは、やっぱりすごいと思った。
そして彼女の正直さが、ちょっぴりうらやましかった。
試合の結果は予想通り実業団チームの勝利で締めくくられた。
でも途中、選手交代で出場した藤村は、立て続けにポイントを稼ぎ、学生チーム内の得点王になった。
たとえ負け試合であっても学生チームの健闘は誰の目にもあきらかで、監督の表情も満足げにほころんでいたのが印象的だった。
このあと、宿舎近くの体育館に移動して、まだ練習メニューが続くらしい。
せっかく来てくれたのに街の案内も出来なくて悪いな……とすまなそうに謝る藤村だったが、一週間後には実家に帰るからその時にまた連絡すると言って、姿が見えなくなるまでいつまでもわたしたちを見送ってくれた。
いや、実際藤村はわたしのことなどどうでもよくて、やなっぺを見送っていたのだと思う。
二人の間には、あきらかに今までとは違う風が吹き始めているように感じた。
その夜わたしとやなっぺはホテルの近くの繁華街に繰り出し、地元にもあるなじみの居酒屋チェーン店に入った。
本当はガイドブックに載っている有名どころに足を運びたかったのだけど、予算が乏しい学生には残念ながらこの身の丈に合った居酒屋がちょうどいい。
今夜は久しぶりに飲めそうな気がする。
前に本田邸で飲みすぎて以来、ほとんどアルコールを口にしていないが、ちょっとハメをはずしたい気分がむくむくと湧いてくる。
「なんかね、今までの悩みがすべて吹っ切れた気分。だって今日みたいな日が来るなんて、ずっとありえないって思ってた。あたし、決めた。もう迷わないっ! 」
やなっぺはいつものようにビールをぐびぐびと豪快に飲み干し、ゴンと派手な音を立ててジョッキをテーブルに置いた。
彼女の場合、あまりにも唐突に、理解の限度を超えた言動を放つことがあるのだ。
決めた? もう迷わない? いったい何が言いたいのか。
ほろ酔い気分のわたしには、彼女の心の動きがさっぱり読めない。
解読不能なまま、ついついビールの泡が付いたやなっぺの口元に視線がいってしまう。
ペロッと泡をなめたやなっぺが、意味ありげににっと笑った。
そして言ったのだ。きっぱり、はっきりと。真っ直ぐにわたしの目を見て。
「あたし、アメリカに留学する」
やなっぺのとんでもない宣言を聞いた次の瞬間、空になったチューハイのグラスがわたしの手からすとんと抜け落ち、テーブルの上に氷を撒き散らしてしまった。