112.夏の終わりに その2
八月も終わりを告げる頃、やなっぺが東京から実家に戻ってきた。
やなっぺの実家はわたしたちが通っていた高校の近くにある。
わたしの家からは、徒歩と電車で四十分くらいのところだ。
バイトが早く終わった時にそれぞれの家の中間地点で待ち合わせをして、何度か彼女と会った。
ところが……。気の毒なことに、やなっぺのお目当ての藤村は、バスケの合宿で長野の体育館に缶詰になっていて、まだこの町に戻ってきていないらしい。
今年になってから一度も彼に会っていないと、やなっぺの表情は曇りがちだった。
わたしも夏休み中は遥と一度も会ってないので、二人でどよんとした空気をまといながら、カフェの一角を何時間も占領するのが日課になりつつあった。
「柊。なんで堂野に会いに行かないの? もしかして、ケンカでもした? 」
残り少なくなったアイスティーをストローでズズズと吸い込みながら、やなっぺがわたしを覗き込んだ。
本当のことを言うまでは帰さないわよとでも言いたげに、わたしを凝視する。
「そ、それは違うよ。ケンカはいつものことだけど、そうじゃなくて……。あのさ、わたし、バイトが忙しいし、遥も仕事が……」
「バイトが忙しい? それに、堂野の仕事のせい? そんなの理由にならないよ。現に、あたしとはこうやって時間を作れるんだし。その気になれば、今からだって東京に行けるじゃん。ははーん。どうもおかしいよね、あんたたち。これ、あたしの推測なんだけど……」
やなっぺの鼻が何かを察知したようにぴくっと動いた。
「誰かに、堂野と会うなって言われたんじゃない? 」
いきなり真正面から核心を突いてきたやなっぺの言葉に、思わず椅子から飛び上がりそうになる。
「ふふん。やっぱ、図星? ホント、柊ってわかりやすいんだから。で、誰に止められてるの? 親? 事務所? それとも堂野自身? 言いなさいよ。それとも、何も言うなって口止めされてるの? 」
「そ、そ、そんなわけじゃないけど、だって、あれ、あれでしょ? なんだかんだ言っても、遥も今回デビューしたわけだし。それに、しぐれさんのこともあるし。わたしと一緒にいるところを誰かに見られたら、よくないんじゃないかと思って……」
わたしはこめかみに伝う汗をハンカチで拭い、クリームソーダのアイスを乾いた舌の上に運んだ。
「まあ、それはいえるよね。ファッション・ユーの十月号、あれはすごかったもの。堂野ったら新人なのに、破格の扱いだったよね。あたしったら二冊も買っちゃったんだから。うちのママだっていつの間にか買ってて、我が家には三冊もあるし」
「三冊も? 」
「うん! 」
わたしの家には一冊しかない。
なんと、隣の堂野家には一冊もない。
妹の希美香が買おうとしたら、おばさんに必要ないと止められたらしい。
おばあちゃんには、わたしの貴重な一冊をこっそりと見せてあげた。
その時、おばあちゃんは目に涙をためて、紙面上の遥を指でなぞりながらじっと見入っていた。
「でさ、こっちに帰ってきて、同級生に会うたびにこの話題だもんね。でもね、そいつらの話って、どれもみんな知ってることばかりでさ。あたしなんか、その裏の裏までこの目で見て知ってるわけだから、それは違うよ誤解だよって、訂正したいのを必死で我慢してる。これが辛いったらありゃしない。昨日もばったり会ったクラスメイトに、うっかり口がすべりそうになって、焦ったのなんの。堂野のホントの彼女は柊だって、大声で叫びたかった。雪見しぐれがなんだって言うのよ! あんな記者会見、誰が見たって、嘘だってわかるじゃん! ホント、いい加減にして欲しい! 」
「や、やなっぺ。声が大きいよ。他のお客さんがこっち見てるし……。やなっぺのその気持ちだけ受け取っておく。あ、ありがとね」
興奮して大声になるやなっぺをなんとかなだめて、とにかくこの話を終了させた。
これ以上この話題を引きずると、牧田さんに言われたことを全て暴露しなければならなくなる。
それだけはまだ何としても避けたかったのだ。
わたしは前から密かに考えていたあの計画を、やなっぺに話すことにした。
「ねえねえ、やなっぺ。長野に行ってみない? 九月になると塾のバイトがなくなるから、休みが取りやすくなるんだ。えっと、藤村は長野のどこにいるんだっけ? 」
すると、突如目を輝かせたやなっぺが、デニムバッグからごそごそと何かを取り出した。
「じゃじゃーん! そう来ると思って、さっき買ったんだ。旅の友、信州! 」
表紙の山の写真がひと際鮮やかな大判の旅行誌をテーブルに広げ、お目当ての地域情報が載っているページを開いて見せてくれた。
「ここ、ここ。冬季オリンピックの会場として有名になったとこだよん。長野市内にホテルを予約して、観光がてらバスケの練習見学ってのは、どう? 」
やなっぺときたら、ちゃっかりわたしと同じことを考えていたようだ。
それならば話は早い。
わたしたちはすぐに駅ビル内の旅行代理店に駆け込み、瞬く間に旅の手配を済ませた。
予算やわたしの図書館のバイトの都合で一泊二日の弾丸ツアーになってしまったけれど、話が決まってから一週間後には、意気揚々と長野市に足を踏み入れていた。
一歩ずつゆっくりと秋の気配が忍び寄って来るのを肌に感じる九月の昼下がり、長野の空は雲ひとつなく、青く高く澄み渡っていた。