109.悲しみのゆりかもめ その1
「あ、あの……。言わなければならないことって、どういったことでしょうか」
さっきから牧田さんの様子がおかしい。
いつもなら、何でもズバズバと真正面から切り出してくる彼女なのに、まるで別人のようだ。
わたしは牧田さんの目を見て、彼女の答えを待った。
「堂野遥……。彼は今月末に発売のファッション・ユーの特集記事に載るっていうのは、周知の事実よね? 」
「ええ、もちろん知っています」
「で、その後、十二月発売の新刊誌で本格的にモデルデビュー……」
牧田さんはそこまで言って、今運ばれてきたばかりのアイスコーヒーのグラスにストローをさし、抜け殻になったストローの包みを無造作にテーブルの隅に追いやった。
そして突然わたしの顔をのぞきこみ、手で口元を隠しながら小声で何かささやくのだ。
「えっ? あ、あの。今、何ておっしゃったのか、よく聞こえなくて……」
声が小さい上にあまりにも早口だったので、ついうっかりと牧田さんの話しを聞き逃してしまった。
牧田さんはあきれたように首を振り、しょうがないわねと言いながら、もう一度ゆっくりと話し始める。
「あのね、柊さん……。今回の雪見しぐれとの騒動は、こちらサイドにすれば、渡りに船だった……ってわけ」
「渡りに船? 」
あまりに唐突な答えに、わたしは思わず大きな声で聞き返してしまった。
その瞬間、隣のテーブルのOLが、四人一斉にこっちを見た。
わたしは大慌てで口元を手で押さえ肩をすくめた。
「そうなの。今まさにデビューしようっていう大事な時に、これほど強烈でインパクトのある記事を暴露されるってことは、自然な流れでは実際にはなかなかありえないことなのよね」
「はい……。多分そうだと思います」
わたしは牧田さんの本心を探ろうと、じっくりと一言ずつ、今までの言葉を反芻してみた。
つまり今回の記事は遥の事務所サイドの捏造ではなく、偶然の出来事、つまり願ってもないチャンスが勝手に降って湧いて来たと言いたいのだろう。
「で、お相手はこともあろうに、あちこちでもてはやされている今最も旬な女優、雪見しぐれっていうじゃない。当然、彼女サイドで記事のつぶしにかかると思ってたんだけど、あちらもバカじゃなかった。まんまとこの話に乗ってきちゃったのよね」
「あ、はい……」
何となく話しの流れが見えてきたような気がするが、まだ理解できない部分も多々ある。
わたしは一言も聞き逃すまいと、彼女の口元をじっと見つめて会話に集中した。
「つまり、堂野遥に思いのほか高値がついた、ってわけ。朝日万葉堂の御曹司で、おまけに城川大の現役大学生。どう? 注目度は申し分ないでしょ? あちら側にしてみれば、以前から噂されてた年上の俳優との不倫疑惑も、これで払拭するつもりなのかも」
「不倫疑惑? し、しぐれさんが? 」
初めて聞く話に、心拍数が跳ね上がる。
「そうよ。まあ実際のところはよくわからないけど、イメージはよくないでしょ? 」
「はい」
「で、今回の報道。誰が見ても爽やかなカップルだし、堂野君って、清潔感も充分。清純派女優雪見しぐれとしては、願ったり叶ったりの相手だったってこと。堂野君から雪見しぐれとの関係も、二人が会っていた事情もすべて聞いたわ。あなたも良く知ってる通り、二人の間には恋愛関係は全くない。でもこの世界は、世の中の人々に、どれだけ素敵な夢を売るかが鍵なの。一見垢抜けてない、ごく普通の大学生である彼のバックグラウンドに雪見しぐれがプラスされて、おまけに伊藤小百合のネームバリューまでついてくる。こっちにしても、これ以上のおいしい話はないってことなのよね……」
牧田さんの目がわたしを捉え、ほんの少し和らいだように見えた。
たしかにそうかもしれない。お互いの仕事のため、いや、彼らを動かしている組織のためにも、この記事をうまく活用していくことが今後の彼らの成功に繋がるというのだろう。
でもそれで、二人はこの後どうなるのだろう。
あの記事を肯定したということは、つまり、遥としぐれさんが恋人同士として世間に公表されてしまったわけだ。
ならば、わたしはいったい……。
体内にいっきに不安が駆け巡る。
そして次の瞬間、体中の血が全部抜けていくような脱力感に見舞われた。
「柊さん、あのね。言いにくいんだけど……」
わたしは唇を引き結び、こくりと頷いた。
牧田さんからダイレクトに伝わってくる負の波動を全身に浴びながら、審判を待つ。
「しばらくの間、堂野君と会わないで欲しいの」
「え? 」
「あっ、でもね、電話やメールまでは辞めろと言わないから。ただね、もしあなたが携帯を落とした時のために、彼の名前はわからないようにしておいてくれるとありがたいわね。あなたにこんなこと言うの、正直とても辛いわ。本当に辛い」
「牧田さん……」
「堂野君にはあなたという恋人がいる。だからこんな理不尽なこと、絶対に許せないと思った。すぐに出版社の上司に掛け合って、事務所側に不服を申し立てたのだけど……。甘いって言われた。こんなことで動じていたら、この先やっていけないって諭されたの。もちろん堂野君は、あたしがあなたにこんな卑劣な申し出をしてるなんて知らない。知ったらそれこそ、今やってる仕事を放っぽり出してここに来るでしょう。柊さん、ごめんなさい。もう後へは戻れないのよ。このまま突き進むしかないの」
牧田さんが決意を秘めた目をして、わたしの手をぎゅっと握った。
「ま、牧田さん……。それは、彼と、遥と別れろということですか? 」
わたしはやっとの思いで、それだけを口にする。