108.早く会いたい その2
家でご飯を食べている時も、テレビを見ている時も。
図書館で仕事をしている時も、塾で板書をしている時も。
夜、眠っている時ですら、彼が夢の中で悲しい顔を見せるのだ。
わたしの心の中は、遥でいっぱいになっていた。
唯一、図書館も塾も両方仕事が入っていない週明けのうだるような暑さの日に、わたしは一泊の予定で東京に向うことにした。
次の日の夜には塾の仕事が待っているので、翌日の昼過ぎには新幹線に乗って帰らなければならない。
遥が電話で何度となく言っていた東京にもどって来いという言葉は、少なからずわたしに衝撃を与えたように思う。
それはもう、今わたしがいるこの生まれ育った町は、遥の帰るところではないと言っているようで、胸が締め付けられるほど悲しかった。
遥にしてみれば、東京が自分の終の棲家になってしまったのだろうか。
遥に会える、ただそれだけの想いを胸に、わたしは東に向かう列車に飛び乗った。
ランチは一緒に取れそうだという彼の言葉を信じて、事務所の近くのカフェまで来ている。
今日の撮影は都内の海岸沿いの埋立地で行なわれているらしい。
人通りの少ない早朝から出向いているので、昼前には事務所にもどれると聞いていた。
でも、もう午後の一時になる。
撮影が延びているのだろうか。遥からは何も連絡はない。
仕事の邪魔になってはいけないと思い、メールも控えていた。
アイスカフェラテを飲みながら、なかなか鳴らないテーブルの上の携帯に痺れを切らす。
隣の席では、四人組のOLらしき人たちが旅行の計画を立てながらセットメニューを楽しそうに食べていた。
彼女たちが手にするパンフレットには、真夏のバカンス、南の島へ、と派手なコピーが紙面を陣取っている。
お盆休みをずらして八月の末に休暇をとって旅立つという話の流れが、彼女たちの口からにぎやかにこぼれ出す。
わたしは旅行どころか、遥と一緒にいることすら今ではままならないというのに。
彼女たちのくったくのない笑顔が羨ましくもあった。
すると、誰かがトントンとわたしの肩を叩くのだ。
振り返った先には。遥ではない別人の視線がこちらに注がれているのに気付く。
そこにいたのは、遥のマネージャーを務める牧田さんだった。
「お久しぶりね、柊さん」
「あっ、こ、こんにちは、牧田さん」
わたしはドキッと高鳴る心臓を押さえて、彼女をそっと見上げる。
「まあ、何もそんなに驚かなくても。あたしって、そんなに怖い存在かしら? 」
「そんなことは、ないです……」
もちろん、牧田さんが怖いわけではない。
ただ急にここに彼女が現れたものだから、びっくりしただけなのだ。
いや、でもやっぱり少しは怖いのかも……しれない。
何もかもが大人で、てきぱきとした牧田さんの存在は、わたしにとっては憧れでもあり、雲の上の人のような存在でもある。
「柊さん。いつ見ても、あなたはかわいらしいのよね。あたしが事務所直属の人間だったら、即行あなたをスカウトしてたかも。でも堂野君が許さないわよね。いつだって、あなたにぞっこんなんだもの。俺の彼女に手を出すなって叱られちゃうかも」
「あの、わたし、モデルとか、そういうのはちょっと……」
「うふふふ。柊さん、あなたって、本当に純粋で素敵な女性だわ。彼があなたを手放さないのがよくわかる」
「そ、そんなあ……」
遥は牧田さんの前で、いったいどんな風にわたしのことを話しているのか、ちょっと心配になる。
「それとね、あなたを見てると、あたしの若い頃を思い出しちゃうの。あなたほどかわいくはなかったけど、でも心の中は初心で、一途で。高校の頃から知り合いだった夫への愛情をずっと友情だと勘違いしていたあの頃。堂野君と同様、あなたを放っておけないのは、あたしの昔を見ているような気がするからなのかも……」
牧田さんの若い頃の話に思わず興味を抱いてしまった。
そうか、旦那さんは高校の時からの付き合いだったのかと、もっとっもっといろいろと知りたくなる。
「って、あたしの話をするためにここに来たんじゃなかったわ。堂野君が来なくてごめんなさいね。実は彼、まだ仕事なのよ。別の場所に移動して撮影が続いているわ。で、あたしが代わりにあなたに会いに来た、ってわけ」
大き目のサングラスをはずし、わたしの向かいに腰を下ろした牧田さんは、白いコットンパンツに包んだほっそりとした長い足を組み、少し日に焼けた肌をこちらに向けて微笑んだ。
「わざわざこんなところまで来ていただいて、すみません。わたしなら、このあと別に何も予定がないので、彼の仕事が終わるのを待ってても全然平気なんです。だから牧田さんも気になさらないで下さい」
牧田さんは組んでいた足を下ろして背筋を伸ばし、急に厳しい顔つきになってわたしを見つめてきた。
「柊さん、あのね。ここに来たのは、その……。あなたにどうしても言わなくちゃならないことが、あって。で、それが……」
突如急変した牧田さんの態度に、不安を覚える。
無意識なのだろうか。
彼女の指先がトントンとテーブルの上を叩き、小刻みに音を立てている。
牧田さんのいら立ちとも思えるそのしぐさに、わたしは言いようのない胸のざわめきを感じていた。