105.小さな相棒 その1
玄関に入ると、小さな青い靴がちょこんとそこに並んでいた。
遥の弟、卓の靴だ。
ということは、その隣にあるベージュのサンダルは、綾子おばさんのものだろうか。
「ただいま……」
多分家の中の誰にも気付かれないくらいの小さな声で、いつものようにそう言ってみる。
そしてそのままこっそりと自分の部屋に向かい、情報番組を録画したビデオを観るという策をたくらんでいたのだが……。
「とーっ! やーっ! かかってこい! 」
幼い卓のらしからぬ勇ましい掛け声が、わたしの行く手を阻む。
卓が跳ね回って遊んでいるところを通らなければ、部屋にはたどり着かないのだ。
どうしよう、どうすればいい?
「これ、卓。そんなところで暴れたらだめ! 縁側の窓が割れたらどうするの? 」
綾子おばさんの怒鳴り声が追い討ちをかける。
「あっ、ひいらぎだ。ひいらぎ、おかえりなさい。すうくん、ひいらぎがかえってくるの、ずっとまってたんだよ」
戦隊物のヒーローになりきっていた卓が、わたしを見つけるや否やバタバタと駆け寄ってきた。
「すう君、ただいま」
わたしの膝に顔を埋める卓を抱き上げ、ほわほわしたりんご色の頬にわたしの頬を重ね合わせた。
なんて柔らかいのだろう。
遥と同じ目をした卓がにっこりと笑って、ちゅっと小さなキスを頬に返してくれた。
かわいい。このまま食べてしまいたいくらいだ。
卓がかわいくてたまらない。
「これ、卓! ひいらぎじゃなくて、ひいらぎお姉ちゃんでしょ! 」
そんなわたしたちをよそに、綾子おばさんが卓の馴れ馴れしい口調をたしなめる。
帰省するたび遥がわたしのことを柊と呼び捨てにするものだから、卓もまねをしているのだ。
小さい天使はわたしの首にしがみつき、引き離そうとする母親に精一杯抵抗する。
「卓。お姉ちゃんはお仕事から帰って来たばかりなのよ! 疲れているんだから、わがまま言っちゃだめよ」
尚もおばさんは容赦なく卓を責め立てる。
「いやだよーー。ひいらぎといっしょがいいよーーー」
おばさんと卓の攻防が続く中、わたしはぐずる卓の頭を撫でて、そっと足もとに下ろした。
「すう君、ごめんね。また今度早く帰ってきた時に遊ぼうね。今夜はもう遅いし……」
本当はもっと卓と遊んでいたいのだけど、今夜はそうもしていられない。
我が家に綾子おばさんが来ていることが全てを物語っているではないか。
きっと遥のことを母に相談していたに違いない。
「あのね、すう君。お姉ちゃんは今から大事な勉強があるから、自分の部屋に行かなきゃならないの」
卓の目の高さにあわせて腰を屈め、彼に許しを請うように言った。
「ええー。つまんない。そんなのいやだよ。だって、みんな、おにいちゃんのことばっかりおはなししてて、ちっともあそんでくれないんだもん」
卓が不満げに口を尖らせる。
「そっか。誰も遊んでくれないんだ……。すう君は戦隊ごっこが大好きだもんね。じゃあ、ちょっとだけ遊ぼうか? 」
「やったあー! で、でも……」
「でも? どうしたの、すう君」
急にしょんぼりとうな垂れる卓が心配になり、彼をそっと覗き込んだ。
「あのね、ひいらぎがおべんきょうするのなら、あそぶの、がまんする。だってすうくんは、はるかおにいちゃんよりひいらぎのことがだいすきだから、わがままはいわないことにきめたんだ」
「すう君……」
「そうだ。いいことおしえてあげる。あのね、はるかおにいちゃん、テレビにでてたおんなのひとと、なかよしなんだって。でもママがおこってるんだよ。なんでなかよしなのにおこってるんだろね、へんなママ」
無邪気な卓の口からこぼれたその言葉に、衝撃が走る。
「ねえ、はるかおにいちゃんとひいらぎって、パパとママみたいにけっこんするんでしょ? 」
「え? あ、そうだね。そうなるといいね」
家族間ではすでに公認になってしまった遥との関係だが、卓もすでに知ってしまったようだ。
「そしたらすうくん、ひいらぎのこどもになる。だってひいらぎはいつもいっぱいあそんでくれるもん。ないしょのはなしだけど、すうくん、きみかおねえちゃんはきらいなんだ。すぐにあっちにいけって、いじわるばかりいうから。ねえねえ、ひいらぎ。はやくはるかおにいちゃんとけっこんしてよ。あのテレビのひとじゃ、いやだからね。はるかおにいちゃんとけっこんするのは、ひいらぎじゃなきゃ、ぜったいにいやだからね! 」
目にいっぱい涙を溜めた卓が、彼なりの自分の思いを伝えてくる。
周りの不穏な空気を、本能的に察しているのかもしれない。
まだまだ赤ちゃんだと思っていたのに、いつのまにこんなに成長したのだろう。
テレビの女の人って、きっとしぐれさんのことだ。
卓の一言一言が、グサッと胸に突き刺さる。