103.遥の彼女は…… その1
今朝は少し早めに家を出た。
玄関を出てすぐのところで立ち止まり、家の周りを見渡してみる。
見慣れない車もいない。怪しい人影もない。大丈夫だ。
マスコミ関係らしき人は誰も見当たらなかった。
まあ、それも当然のことかもしれない。
無名にも等しい遥をこれ以上追いかけても、何も得はないということだろう。
誰かが待ち伏せしているのではないかと思い玄関を出るのが怖かったが、それも取り越し苦労に終わり、ほっと胸を撫で下ろした。
遥の家に寄って、昨夜の電話の内容をかいつまんで綾子おばさんに伝えた。
おばさんは顔をしかめるだけで、それ以上は何も訊いてこなかった。
自業自得よ、と一言漏らし、ため息をついた。
おばさんも昨夜はあまり寝ていないのだろうか。
ひどく疲れた様子で、最後に柊ちゃんありがとうと言って、部屋に入って行った。
今日のバイトの予定はぎっしりだ。
今から四時まで図書館の業務をこなし、五時から塾の講師の仕事が待っている。
当然、朝や昼の情報番組を見る時間はなく、昨日のインタビューの様子も今日の午後の記者会見も、家に帰ってから録画したものを見るまでお預けだ。
大きなミスもなく図書館の業務を終えた後、コンビニで買ったおにぎりをほおばり、そのまま塾になだれ込んだ。
中学三年生の国語と英語を担当している。
国語の長文読解のプリントの答え合わせをしながら、ひとつひとつ説明を加えていくのが本日の指導内容だ。
接続詞の選び方や、指示代名詞の示す内容、そして長文を要約するコツなどを伝える。
英語は入試の過去問題に触れ、傾向の分析と、文法を中心にプリント学習をしていく予定だ。
個人の経営する小さな塾なので、生徒の数も少なく、とても教えやすい。
アットホームなところは、昔のままだ。
そういうわたしも中学三年生の時、夏休みと冬休みの受験集中講座でこの塾のお世話になった。
内申点が完璧に不足していたわたしを奮い立たせ、志望校の合格ラインすれすれまで成績を引き上げてくれたここの先生には、感謝してもしきれないほどの恩義を感じている。
三年一学期の内申点があそこまで低くて西山第一高に合格した子は、後にも先にもわたし以外には例がないそうだ。
もちろん、家では遥の厳しい個人授業があったわけだし、塾との二段構えで出せた結果だと思う。
そんな世にも恐ろしい経歴を持ったわたしを、塾長は今でもかわいがってくれる。
そして高校でも誰もが認める劣等生だったにもかかわらず、私大最難関とも言われる城川大に合格したと報告した時の塾長の喜びようと言ったら、それはもう……。
涙を流して大喜びしてくれたあの日のことを、今でも鮮明に思い出す。
君ほど努力をした生徒を私は知らない、是非今後の塾生たちに君の武勇伝を語り、勇気づけてやって欲しいと懇願されたのだ。
そして今回、帰省した夏の間だけでいいから後輩たちのために手を貸してくれないかと塾長からの直々の要請があり、過去にお世話になったお返しが少しでもできるのであればと、講師を引き受けた経緯がある。
生徒たちのキラキラした瞳が一斉にわたしに注がれる。
どの子も一字一句聞き逃すまいと、真剣に授業を受けている。
しんと静まり返った教室には、こつこつとペンを走らせる音とプリントをめくる乾いた音だけが響いていた。
生徒たちのあまりにも熱心な姿に、心を打たれる。
どう表現すればいいのだろう。
今までに感じたことのないような満ち足りた情感が、身体中に溢れてくるような気分になる。
大学四年の六月には、卒業した中学校で教育実習をする予定だ。
教員免許もあった方がいいかな、くらいの簡単な動機で単位を取っているのだが、こうやって実際に生徒たちを前に指導者としての立場を体験すると、教師という職業にも興味が湧き気持ちが傾いていくのが不思議だ。
中学か高校で国語の教師として働くことも将来の設計図に組み入れてしまいたくなるくらいに、充実した時を過ごしている。
手元の時計が、授業の終了時刻を示していた。
学校とは違い、この塾ではチャイムは鳴らない。
教室の時計を見て、そろそろ終わるとそわそわし始めた生徒たちの様子を見計らって、授業の終了を告げる。
ようやく緊張感から解放され、ホッとする休み時間に突入するのだ。
トイレに行く子、隣の友達とおしゃべりに花を咲かせる子、空腹に耐えかねてパンをかじる男子生徒もいる。
もちろん、わからなかったところを質問してくる子もいるし、次の授業の予習に取り掛かる子もいる。
その光景を眺めているのも、わたしにとって楽しい時間だ。
「ねえねえ、よっこ! ……見た見た! ……だよね」
「ホント、びっくりだよね」
「……やっぱりそうだったんだ。あたし、雪見しぐれが大好き。去年やってた連ドラで、すっかりファンになっちゃったんだ」
「それそれ。あのドラマ、めっちゃよかったよね。でもさ、あたしは最近、堂野遥がいいんだ。だからさ、今回の事、ちょっと残念。この先、カレのことをいっぱい応援しようと思ってたのに、もう……しぐれと付き合ってるんだよ。それって、ひどすぎない? 」
今一瞬、慣れ親しんだ名前が教室にこだましたような気がした。
女子三人組が何やらうきうきと楽しそうに話しをしてるのだ。
どこかで聞いたことがあるような内容が、とぎれとぎれにわたしの耳に届く。